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199.「『生活科の理論と実践―「生きる力」をはぐくむ教育のあり方―』木村吉彦著 日本文教出版 刊」 「今度の生活科って知的気づきを重視するんだって」「気付きって、社会や理科の基本的な知識に気が付くってことでしょ」「え、生活科の場合はちょっと違うんじゃないの?」 この会話は某県教育センターの喫茶コーナーで耳に入った話だ。この会話の背景には、 生活科における実践と理論を読み解き、自分化する過程を経ねば生活科の実践と理論は結びついて行かない。指導要領は実践と理論を結びつける原典である。しかし、そこに示されている言葉を実践の知として受け止めていくためには教師同士の話し合いや、読書、実践分析など多様な取り組みが必要となる。そんな教師の教育的探求をサポートしてくれる強い味方となる書籍が発行された。『生活科の理論と実践―「生きる力」をはぐくむ教育のあり方―木村吉彦著 日本文教出版』がその本だ。 生活科のカリキュラムは伝統教科と比べて、動的で多面的な性格が強い。子どもが様々な対象と出会い、活動の文脈によっては個性的で特殊な学び空間を生み出す。子どもと環境との相互関係によって、実践は多様な顔を持って教師の前に出現するのだ。そうした生活科の実践を構想し、捉え、改善して行く上で本書は心強いガイドとなる。生活科という教科の本質を論と実践、教師の具体的指導事例や子どもの姿から立体的に捉えた内容だ。論と実践はそもそも乖離した存在ではない。実践の中に昇華させていく論を持つことの価値を実感できる一冊だ。 中村雄二郎は≪臨床の知≫の特徴として①コスモロジー(個性的な時空間)②シンボリズム(多様な表現の中に意味を見つける)③パフォーマンス(身体性を持った行為)の三つを挙げている。生活科という実践的具体的活動を大事にした学びだからこそ、子どもの姿と生活科の理念を臨床的に結びつける確かで柔軟な指導知が必要となる。①特殊で具体的な学び空間の中で②学びの意味を見つけ③子どもの活動を受け止め促す。その「臨床的な指導知」に自信を与えてくれるのが本書である。子どもにとっての学びとは何かを捉えなおす上でも参考になる。 |
| 198.「言葉受けと対話」 数週間前の病院でのこと。父と私は病室で小さなゲームを楽しんだ。失聴者であり、車椅子での生活となっていた父。そんな父と楽しんだのは、丸めたティッシュのキャッチボールであった。 父に向って投げる時は、正確に安定した場所を目がけて投げなければ、キャッチすることができない。一方で、手の感覚が鈍くなった父の投げる球は、散弾の様に飛ぶ方向が定まらない。しかし、この球を何とか捕らねば、キャッチボールは成立しない。懸命に父の投げた球を捕って、父へ返す。「何十年ぶりの親子のキャッチボールだったなぁ」と最後に父は呟いた。キャッチボールはコミュニケーションに似ている。表現という投げも大事だ。だが、受けてくれる相手が存在するから、表現をしようと考えるのではないか。子どもの言葉を受ける、心を受けるというスタンスと技能が、子どもの対話意欲を底支えするのであろう。 年度末に鈴木功一校長(静岡県掛川市)の「現役最後の授業」を拝見する機会を得た。この先生の授業術の素晴らしさは、子どもの表現を多様に受け止め、臨機応変に子どもに返す点にあった。鈴木校長の返しを分析し、「びっくり返し」「期待返し」「可視化返し」「主権返し」「典型返し」「認め返し」「見立て返し」「見止め返し」という様なネーミングをつけて、分類してみた。ここでは詳しく書かないが、どの様な返しなのか想像してみて頂きたい。対話は、受け側の技能によって質が大きな影響を受けるのであろう。 「汝に依って我を礼し、我に依って汝を礼す」という言葉がある。 あなたによって私が礼となり、私によってあなたが礼になる。対話も同様だ。「汝に依って我は対話し、我に依って汝も対話す。」互いに受けることが深ければ、自ずと表現も豊かになる。 父との最後のキャッチボールは、受けることの大事さを再確認させてくれた。林業関係の公務員であった父は、自分で選んだかの様に「みどりの日」、帰幽した。 (2012.5.5) |
| 197.子どもを置き去りにしない「実践考察」 「子どもらしさに学ぶ20(授業改善研究会編)」が今年も手元に届いた。この実践―記録―考察集は、具体性と主体性に満ち溢れている冊子だ。教師と子どものやり取りという具体性と、双方の願いという主体性がこの冊子の二重の核になっている。教育実践(授業-生活指導-学級経営)は教師と子どもの相互関係によってのみ出現する現象である。出現した学びの場は、その教師とこの子どもたちによる個性的な空間だ。「わかりましたか(教師)」「わかりません(子ども)」という単純な対話でさえ、その教師とこの子らだけの特別な意味世界を持っている。 だが、こうした対話を記録し、分析し、次の授業や未来の学びにつなげていく作業は、意外とないがしろにされやすい。わかりたくてわからないのか、わからなくてわからないのか、わかっていてわかりたくない(と言いたい)のか。「普段の授業を大切にする」とは言うが、記録や振り返りをする余裕が持てない場合も多いのではないか。だが、言語活動などを重視しようとすれば、子どもとの対話を分析する意味もより増してくる筈である。 このシンプルかつ価値ある活動を行っている会が、授業改善研究会(静岡県東部地区)だ。普段の授業を大切にするには、不断の実践―記録―考察が不可欠である。収録された19の実践分析(主張)には、教師と子どもが生み出した個性的な学びの物語が含まれている。教師の学びと、子どもの学びという二つの視点が表裏一体になっているのだ。自己の学びから逃避しない教師こそ、学びから逃避しない子どもを育てることができる。子どもと学びに正対している教師の姿が、この冊子-実践を支えているのだ。 子どもらしさ(普遍原理)とこの子らしさ(個性原理)を行き来する考察によって、一般的な子どもの習性と個性的なこの子の考え方が浮かび上がってくる。子どもが見えてくることによって、教師の指導方法も定まってくる。指導技能や授業術は、子どもと切り離された場では存在できない。子どもとの相互的な関わりの中で機能するからこそ、具体の授業で役立つ技能となるのだ。 実践者による実践者のための実践分析の価値を教えてくれる冊子が「こどもらしさに学ぶ」である。子どもを置き去りにした教育論にはない、人の温もりと情熱を感じさせてくれる冊子である。 |
| ※古くから交流がある横藤雅人先生の新著を読んで 「5つの学習習慣―驚くほど子どもが勉強しはじめる―」 横藤雅人 著・合同出版 刊 【学習習慣を育てる極意を記した五輪の書】 「子どもを放っておいたら勉強なんかしない。」という意見がある。子どもの学ぶ意欲に対する不信感が、この発言の根底に潜んでいる。だが、もしかすると、放っておいたら学ばない大人が、自分の姿を子どもに投影しているだけなのかもしれない。学ぶ態度や習慣は、大人にとっても子どもにとっても学ぶ力の基盤である。知識は学力そのものではない。知識を使える形で実装することが、真の学力向上につながる。しかし、使える形の知識とは、どの様な機能を持った知識なのだろうか。 一つには「ポータブル」な機能を持った知識だということ。テストの場だけでなく、様々な問題解決の現場に持ち出して知識を使う。二つには、「ブータブル」な機能を持った知識だということ。「ブータブル」とは、自発的な活動の生起を意味する言葉だ。課題や対象を思考の射程に捉え、焦点を合わせていく能力である。三つ目は、「フレキシブル」な機能を持った知識だということ。柔軟な応用力、活用力を持った知識だということ。持ち出し可能で、自発的で、応用が利く知識。常時考え続ける態度と習慣を身につけることが、教育において重い意味と価値を持つのである。 では、こうした「学ぶ態度と習慣」はどの様な方法で育てればよいのであろうか。「学習環境を整える」「基礎的な学習技術を育てる」「子どもの学習につきあう」「学習効果を高める工夫をする」「子どもをその気にさせるひとことをかける」という5つの領域に、学習習慣を育てるポイントがある。そう指南してくれる本が「5つの学習習慣―驚くほど子どもが勉強しはじめる― 横藤雅人 著・合同出版 刊」だ。前述の≪5つのポイント≫は、同書に収録されている5章を流用したものである。宮本武蔵は自らの兵法の極意を「五輪の書」にまとめたが、この本は「学習習慣育ての五輪の書」だと言える。 著者は現職の小学校校長であり、豊かな経験と論理に裏打ちされた教育的臨床知が、この本の内容を確かなものにしている。子どもと共に生活全般を捉え直すことで、学習スキルの習得に加えて「学ぶ態度」を育てる具体策を示している。「学習内容は内容で区切るか?時間で区切るか?」「100円ショップを活用する」という様に、身近な問題や事例から子どもとの適切な関わり方を提案しており、納得しながら読み進むことができる。 同書は保護者が読むだけでなく、若手の教師が保護者の相談に応える場合にも参考となる。巻末の「家庭学習10のべからず(してはいけないこと)」は、教室での指導を見直すポイントにもなることだろう。 |
| 196.私的学びの覚書④ それでも、文章を書くことは好きであった。生活の中で見たり聞いたりした事象を自分の言葉で言い換える一人遊びが、特に好きであった。高圧線の向こう側に沈む夕日を見ては、「五線譜の様な電線の向こう側に、熟れた柿の様な太陽が沈もうとしていた」などと、独りよがりな言い換えを楽しんでいた。自主的な言葉遊びは得意であったが、テーマを与えられての作文では全く書く気が起きなかった。ところが、自由題で作文を書くということになると、俄然創作意欲が湧きあがって来るのだ。 小学校3年生の時に書いた、「ふしぎなばらばら」という作文は担任の先生から評価され、区か何かの文集に収録するよう推薦されたことがある。普段から国語が苦手な子どもがどうしてこんな作文を書けたのだろうか。担任の先生も疑問に思ったことだろう。その作文の状況が、本当に私の体験に基づく事実かどうか沢山の質問をされた記憶が残っている。いつ起きた話か、ここに出て来る友達は何組の誰なのか、木のぼりをした木はどこにある木か。盗作や空想による創作ではないということを確かめようとする質問だったのだ。 だが、質問が終わった後で「<ふしぎなばらばら>という題名の付け方が素晴らしい」と先生は褒めてくれたことも記憶している。文章を書くと言うことに対して、抵抗感はなかった。悪筆であっても、筆記用具そのものも好きであった。近所の文具店に行っては、よく万年筆を眺めていた。ショーウィンドウ越しに、うっとりとした表情で万年筆を覗きこむ小学生を店員はどう見ていたのであろう。この頃から、何かを書く仕事をしている自分のイメージが心の中に存在していた。現実的には成績が悪く、作家や原稿を書く様な文化的な仕事をする様になるとは予想していなかった。自分の予想や希望、想像を超えて「何かを書いている自分の姿」が心の中に時々浮かんで来た理由は未だに不明だ。この心の中の「書く私像」が、文章を書く仕事に自分を促す潜在的なエネルギーになっているのかもしれない。 「ふしぎなばらばら」 「僕の知っている飛行機はもっと速いんだぜ。100キロの百ばいくらい速いんだ。」 優斗は自慢そうに、タケルと海人に話しかけた。 「それじゃあ、証拠を見せあって決着をつけよう。」 「もう、こんな話はやめようよ」と海人は仲直りをすすめたが、「海人は関係ないだろ。そうだ、お前とは絶交だ。」「そうだ、もうみんなとは絶交だ。」優斗とタケルは海人を真ん中に残して、別々の方向へ歩いて行ってしまった。 「困ったなぁ」海人は心の中でつぶやいたが、どうしたらよいかよく分からなかった。 翌日になっても、三人は言葉を交わすことがなかった。本当は話しをしたかったのだが、互いに話しかけることができない。しかし、互いに素直になれない自分を感じていた。 学校の廊下ですれ違っても、三人は見ないふりをして目を合わすこともしなかった。しかし、誰もが心の中で同じことを感じていた。「やっぱり、一人はさみしいな。」しかし、三人は相手に言葉をかけるきっかけをつかむことができなかった。言葉よりも前に、心がすれ違っていたのだ。 三人は共通の遊び場がある。三人はここを「広場」と呼んでいた。広場とは言っても、実際には小さな公園である。今はなくなってしまった団地の隅にある小さな公園が三人の広場だったのだ。毎日この場所に集まっては、古いブランコに乗ったり、木のぼりをしたりした。しかし、絶交をしてから三日が経っても、この公園に三人の姿は現れなかった。 ところが、四日目になって、とぼとぼとこの広場にやってきたのは、優斗だった。 「ああ、なんか一人じゃつまんないな。」優斗はそう呟いて、いつも登っている木の上にするすると登った。目の下に見える誰もいない広場。しかし、よく見ると誰かが、広場に近づいてくる。それは、海人の姿だった。海人は木の上にいる優斗の姿に気がついていない。やがて海人が木の下まで来ると、優斗はぱらぱらと葉っぱをちぎって下に落とした。海人が上を見ると、そこには照れくさそうに笑う優斗の姿があった。海人は木を登って、優斗のところまで上がっていった。 「やあ。」「おう。」二人はそのまま少し黙りこんでいたが、二人ともどこか嬉しそうな顔をしている。その時、海人が広場に向かって歩いてくるタケルの姿を発見した。やがて、タケルも何引き付けられる様に、木の下にやって来た。今度は海人がぱらぱらと葉っぱを下に落とすと、タケルも上をのぞきこんでから、するすると木の上に登って来た。「ごめんね」とタケルが言うと、三人は目を合わせて黙ってうなずきあった。 三人の顔を真っ赤な夕焼けが照らし、とてもとても大事な一日が終わろうとしていた。 三年生の頃の かじうら まこと 作 |
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196.私的学びの覚書③ 読書での意見交換における私の意見は相当個性的な内容であった。「面白い意見だ、不思議な考えだ」という評価を講師や仲間から受けることが多かった。本の著者を招いての読書会では、著者の先生から「おもしろい考えだ」と言われたこともあった。おもしろいとは言うが、相当に異色の意見だったのであろう。特に「僕が著者だったら、もっと違う物語にする」などと言い出すために、著者の先生方には不快な思いをさせたかもしれない。学校での国語の勉強は全くできなかったが、ここで優秀な友人の意見を聞くことは大変よい勉強になった。私の様な創造力や飛躍的な発想ではなく、三角ロジックの様に構造的でスマートな意見を述べる高学力の友人が多かった。また、違った意見であっても公平に扱ってくれる大人が司会をしていたため、自分流に考えることに自身が持つきっかけにもなった。いや、もしかすると、この辺りから学びの道を逸脱し始めたのかもしれない。覚えることよりも、自分で考えることに偏り過ぎた学びをしてしまったのであろうか。 読書は好きであったが、国語は苦手であり、好きではなかった。テストでも、全くお角違いの答えを書くことが多かった。テスト問題で問われている内容は理解できるのだが、ここでも創造力が無駄に発揮されてしまう。答えを書いた後で「多分この答えは間違っていると思うが、AとBのつながりやその後の話の流れから考えると、僕の書いた答えを正解にしてもよいのではないか・・・」という、自分の答えの正当性の根拠をテストの裏に自論を書いてしまう。通知票の所見に「自分の世界を持っており、教師や周囲の意見を受け入れません」と書かれた理由がこうした所にあるのだろう。従って、国語の成績はいつも悪かった。私の読書は教科としての国語の点数には全く反映されなかったのである。 |
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195.私的学びの覚書② では、全く文化的な知的活動から離れてしまったのかというと、そうではない。低学年までは虚弱体質であり、学校を休むことが多く、病床で本を読むことが多かったのだ。やがて、読書は自分の遊びの重要な部分を占めることになる。特に印象的だった本が二編ある。一つは、山岳事故で亡くなった伯父が贈ってくれた「なぜだろうなぜかしら」というシリーズ本だ。「なぜ空は青いのか」「なぜ海の水はしょっぱいのか」「なぜ風邪をひくと熱がでるのか」という様な質問に対応して答えが書いてあるという本だ。 この本で面白かったのは、内容よりも自分なりの読み方ができるということだった。Qを読んだ後で、「自分なりの答え」を考えてみる。そして、その後で答えを見て、自分の考えと比較するのだ。こうして、自分なりの考えを創りながら読むと、自分の頭の中に自分の考えを創り、保つということが楽しくなる。覚える読書よりも、考える読書を楽しんだのだと言えるだろう。実は、そんな高尚な動機ではなく、一冊の本に時間をかけて読むには、この読書方が適していたのだ。数冊の本では短い時間で読み終わってしまう。なるべく長い時間をかけて読む方が、楽しみが持続する。長い時間にわたって、読書を楽しむことができるのである。 もう一つ関心を持って読んだ本がある。「子ども百科事典」という全8巻の百科事典だ。あまりに繰り返し読み過ぎて、三年生の頃には全巻の内容と書かれているページ数を暗記してしまったほどだ。家庭訪問で訪ねて来た担任の先生に対して、「この子は百科事典を全部暗記していますよ」と母が話したことがある。担任の先生は「そんなことはある筈がない。学校では全然勉強はできません」と答えた。私は、「3巻の247ページは顕微鏡で、オランダのレーベンフックのことが書いてある。5巻の433ページからは電気のことでフランクリンの凧のことや交流、直流のことが書いてある」と話し、実際に百科事典を開くとその通りであった。担任の先生は驚くというか、やや狼狽した様な表情をしていた様子が記憶に残っている。 私は行動主義的な反復学習を否定する意見を持っていると勘違いされることがある。しかし、認知主義的な学習や社会構成主義的な学習という高次な学習に繋げて行く過程で、反復学習にも大きな意味があると考えている。大事なことは、どの様な状況の子どもに、どの様な内容を、子どもの自発的取り組みを促す形で反復をさせるかということであろう。また、シンプルな反復学習でこそ、与え時や引き上げ時という、学習者にとってのタイミングを見極める指導技能が重い意味を持つと言えるだろう。そして、教える、学ぶ、学び合うという学習活動の社会化も忘れてはならない。 繰り返すことは大事だが、楽しく、挑戦的に、自発的な反復を促すことが出来なければ、反復嫌いを生んでしまうことになる。私は、自発的に繰り返して本を読むことで、本を読むという行為が好きになり、自然と繰り返して読む行動を誘引できたのであろう。覚えなければいけないと言う様な外的強要が無かったことも、自分流の読書を充実させる要因になっていたのではないだろうか。読書の楽しさが、脳内でドーパミンを多く放出させる要因となり、読書を一層好きにさせることに繋がったのではないか。 |
| 194.私的学びの覚書①
私に学歴は無い。履歴書を書くと、転職歴(変職歴?)だけが記される様な有様だ。子どもの頃の学力不振を克服できずに現在に至っている。子どもの頃、オール1の成績を取っていた子どもが、後に勉強をやり直して失った過去を取り返すというサクセスストーリーは時々耳にすることがある。『オール1の落ちこぼれ、教師になる』の著者、宮本延春氏などはその代表的事例かもしれない。一度は勉強の敗者となっても、最後は勉強を返り討ちするという美談で終わるのだ。私の場合は、こうした事例とは異なり、学力不振児童を貫いて現在に至っている。 「大学にも行っていないのに、どこで勉強を学んだのですか。」この質問は、キャリア教育の講演等で必ずと言ってよいほど尋ねられる質問だ。学校でしか学ぶことができないと考えている人にとって、学校以外での学びは信用ならないのであろう。いや、学校以外で学んだ知識そのもの信頼度が低く見積もられている様な気もする。リベラル・アーツの知識は学校に専売権があると信じられているのかもしれない。ところで、自分の知識や学びはどのようにして形成されて来たのだろうか。 自分自身で反省的に振り返ったことはない。だが、学歴(学校歴)とは相関関係が薄いと言えるだろう。私の学びは無意識、無自覚に自動化された自己流の学び方に支えられている。勉強が出来るようになりたいと思ったことも、殆どない。こういう者が学習について云々すること自体が、学習指導の世界では掟破りなのだろう。「本当の学びを追求して行けば、必ず質の高い結果が得られる。これからの時代は、私的な学びであっても質が高い成果は必ず評価される。本物の学びを続けること、それが大事です」と寺尾愼一氏(福岡教育大学学長)から言われたことがある。単純な記憶に頼らないという意味では、それなりに質の高い学びを経験できてきた様である。だが、社会に出てから比較的高く評価されたのは、記憶力の高さであった。かつて勤務していた新聞社内でも「もの覚えが激しい奴」という評価を得ていた。君の場合は記憶力ではなく“記録力だ”と言われたこともある。 かつて堀裕嗣氏から「君の持っている記憶術を、メソッド化、スキル化できないか」と尋ねられたことがある。その時には「覚えようと思って覚えている訳ではないので、スキル化は難しい」と答えさせて頂いた。そもそも、私の学びは「記憶する」ということにあまり意識を割いてはいない。覚えるという行為よりも、考えるという行為にウェイトを置いて来た様に思う。例えば、二時間以上に及ぶ長い時間の講演でも、その内容を記憶して話している訳ではない。覚えている内容は忘れたり、飛んだりしてしまうこともある。覚えていることよりも、日頃から考えていることを話すことが多い。そのため、長時間でも話すことができるのであろう。記憶の再生よりも、考えの構成の方により重いウェイトを置いているということかもしれない。 いずれにしろ、自分の学び方を自己分析したことはなかった。その必要性も感じていなかった。しかし、自分にとって自分の学び方を学習研究の教材にすべく、「私的学びの覚書」を書いてみようと考えるようになった。いや、考える様になったのは、今朝のことである。私の学欲は継続的な性質だけを持つ物でではない。むしろ、常に発作的な側面を持っている。覚書はmemorandum(ランダムメモ)であるから、無作為に経験や思いを拾いながら、自分自身の学び方について、点描をして行きたいと思う。 |
| 193.育ちの個性が響く「協室」づくり . 「えーっと・・・・、うーんと・・・・・・・・・・えー・・・・・・、わかんなくなっちゃいました」→≪やっと表現できる≫ 。「何て言うか、電気にはプラスとマイナスあるでしょ、だから、モーターが回る向きが変わる。だから電気とモーターが回る方向には・・・・。電気には方向があるから、モーターの方向も・・・・・」→≪もっと表現できる≫。「話すことで、自分の言いたいことがわかると思います。だから話すことで考えが整理できるのだと思います」→≪ずっと表現を大事にする≫。 子どもの思考や表現には、この子の能力の限界で行われる活動がある。これが、≪やっと≫だ。また、先生や仲間や教材の知に刺激されて、どんどん話したくなる時がある。これが、≪もっと≫だ。そして、考えたり話したりすることの価値を感じ、それを自分の中に取り込んでいこうとする時がある。これが≪ずっと≫である。 この、≪やっと≫≪もっと≫≪ずっと≫は個の中にだけ存在するものではない。教室の中では、この三つが共鳴し合うことで、相互に学びの種が生まれて行くのである。「○○君が言いたいのはこういうことだと思います」「○○さんの意見に▼▼を付け加えるとかんぺきな考えになると思います。」やっと、もっとの子どもが考え合いを通して、≪ずっと≫という態度が育まれていく。 子どもの育ちの速度や質は同一同質ではない。そこに教室が協室になっていく力の源泉がある。個性とは差がある、違いがある個の集団を前提にして成り立っているものである。揃うと安心する、揃わないと不安になる。教える者の欲として、成果の斉一性を求めることも理解できる。だが、多様な差を生かすことができない学級は、痩せた土地に似ている。窒素、リン酸、カリだけでは植物は育たない。差を解消することだけでなく、差を生かすことで学びの土壌を豊かにして行きたいものである。 2011.12.27 |
| 194.学習者の理解-洞察こそ授業実践技能の要 授業技能の有効性は何によって決まってくるのだろうか。教材の選択や構成の技術だろうか。分かりやすく説明する能力か。それとも、学習者と対話が上手いうことであろうか。それらも確かに有効な要素ではあろう。 中内敏夫氏は「学習者の状態」が授業行為において決定的な役割を果たすと指摘している。明日教えようとする内容を、既に学習者が完全に認識していたならば、指導の必要性は生じない。明日教えようとする内容を間違って認識しているとすれば、教え方は違ってくる。学習者の状態をいかに把握するかが、授業づくりのキャスティングヴォードを握っているのである。 教師にとって、「子ども理解」は聞きなれた言葉である。子ども理解がないがしろにされた時、授業は学びの場として成り立たなくなってしまう。日本の教師はそのことを昔から知っていた。故に、学習者理解が大事にされてきた。学習者の理解-解釈-洞察力こそ、授業実践技能の要だと言える。実践的研究者たる教師の高い専門性がここにある。 今年も数多くの授業を拝見する機会を得ることができた。その中で優れた授業者が持っていた共通の資質が、学習者洞察の能力である。子どもの表れを洞察する感度、精度、理解度が高い教師ほど、子どもの学びを構成することに長けている。反対に、子どもの状態を掴むことに失敗すると、教師の認識を再生する為の授業となってしまう。子どもの思考や表現が、教師の知を再生する材として消費されてしまうのだ。子どもの状況を洞察し、巧みに応じて行く行為が指導の有効性を決定して行く。「巧」という漢字は、まっすぐなノミと曲がったノミを表し、技能の柔軟さを示す象形である。子どもに応じる≪巧み力≫こそ、授業技能の本体だと言えないだろうか。 かつて、岡野俊一郎氏がサッカー日本代表のコーチだった頃のこと。練習でゴールキーパーの指先3センチを狙い、正確なシュートを打ち続けたという。指先1センチでは簡単にボールが取れてしまい、10センチでは諦めてしまう。GKの能力を洞察して、指先3センチを目がけてボールを蹴る。この3センチに、学習の領域が存在していることを岡野氏は知っていた。つまり、学習者の洞察からしか、確かな指導は生まれないということだ。 子どもの表れを「聞き止め」「見止め」「感じ止め」る。この「三止め力」こそ、授業と言う対人行為の生命線を握っている。学習者の理解に、分かったという完了は無い。ゴール無き洞察の道程が教師の授業実践技能を高め、授業の効果を高めて行くことに繋がるのである。 2011・12・13 |
| 193.研修の4っつの原則 「幸福な人は一様に幸福だが、不幸な人は様々に不幸である」という。病院に行くと、健康な人は一様に健康であるのに、病気の人の病は様々である。 この病を校内研修に置き換えてみよう。校内研修が上手く進んでいる学校は、難あれど一様に順調に進んでいる。しかし、研修が上手く機能していない学校の研修不全の原因は学校毎に様々である。ベテランが強すぎて若手に発言権がない、忙しくて研修どころではない、そんなものは個人でやるべきものだ・・・等々色々な原因が隠れている。 では研修が上手く機能している学校では、どんな要素が有効に機能しているのだろうか。 私の臨床的経験から見えてきた「研修が機能する学校の四原則」が下記である。 ①具体性②目的性③論理性④必要性、そして「協働的組織風土」が研究の実行基盤となる。起承転結=気昇填頁(きしょうてんけつ)のプロセスも大事であろう。 この4っつの角が一つでも欠けると、研究の充実は困難になる。させられる研修からする研究に、参加と充実が希薄な協議から充実と学びのある協議へ。そんな研修が増えて欲しいと願っている。 ※11月25日・下田市立下田小学校自主研究発表会にて、上記の図と研修に関する講話をさせて頂きます。 |
| 192.教師が“響志”になるところ 最近の校内研修は、講義から協議に変化してきている。授業を見て、簡単な自評と感想の後で、講師の講話を聞く。こうした静的な研修は過去のものとなりつつある。小グループのホワイトボードミーティングや、抽出児を決めて、この子の視点から授業の構成と流れを捉えていく抽出児方式など、能動的な参加による考え合い話し合いの研修が増えている。 こうした話し合いから見えてくることは、「子どもの姿であり、指導の具体の技能と作用」である。こうした情報は話し合いを通してしか得られないと言う特徴がある。自分の授業は自分が一番わかっている様で、見えていない部分も多い。一度、自分の授業ビデオを撮影して見なおして見ると、意外な発見に気づくことがある。見つかるのは問題点ばかりではない、優れた指導技能が意味づけられることもある。板書の巧みさと巧みさを支える要素、子どもの表現力を引き出す教師の聞き力、子どもの表現や表情に応じて発問と確認を使い分けていく技、話し合いを深める為に話し合いの途中で課題にプラスアルファを加えていく術などなど。日常の授業の中に潜んでいる「指導の具体的技能」が見えてくることが多い。 そもそも、具体の指導方は、具体的な場にしか存在し得ない。先生と子どもの関わる場でのみ、姿を見せるのである。○○メソッドという形式的な指導法は、指導法とは言えないのかもしれない。静的な教材と時系列的手順は分かりやすい指導法に見えるが、そのメソッドが問題そのものを解決することは少ない。単純で効率的なメソッドは、単純なメリットを持つ学習には在る程度の効果が期待できる。しかし、考え合いや深め合いによる対話-協働的な学びなど、複雑かつ流動的要素を持つ生の授業では、教師の指導技能が問われることになる。やはり、血の通った教師の具体の指導技能こそ、子どもを伸ばす指導の鍵だと言えるだろう。 こうして、話し合ってあぶり出された指導技能や子どもの変化や特徴を、教師が共有していくと共感が共観に変わっていく。観を共有し共観が教師集団の中に生まれてくると、教師が響志に変わっていく。この信念に基づく連帯感が、指導の自信に繋がり、実際の指導技能のよさも共有して行くことに繋がる。南伊豆東中学校、沼津第四中学校、裾野南小学校、そして立川第七小学校などはこうした、響き合う研修が実りを見せ始めている。先生の個性が輝き、一人の先生の得意がみんなの得意に変わっていく。こうした社会構成主義的な研修こそ、教師が学び甲斐と教え甲斐を協創していくことができるのであろう。 2011 11/17 |
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191.『協同学習入門●基本の理解と51の工夫』 杉江修治 著 日本の教育世論は二分法的理解を好む。詰め込みかゆとりか、個が先か集団が先か、教科か総合か、競争がよいのか協同がよいのか。問題の要因を二つに分けると、比較的単純な思考で要因を選ぶことができる。それ以外の選択肢を考えずに済む。更には、二つの要因が持つ構造的関係も考えずに済ませてしまうことができる。こうした短絡的な思考では、実りある教育を問うことができない。思考力、判断力は子ども達の為だけに重要なのではない。 「総合的な学習」は必要か不要かという議論がある。しかし、算数や理科という伝統教科が必要か不要かという議論は聞かない。総合は要不要論に結び付きやすく、教科は指導法の改善論に結びつきやすい。教科では「もっと効果的な指導法があるか」が検討される。だが、総合では指導法の工夫が問われずに、要不要へ飛躍してしまうのである。なぜ、そうなってしまうのだろうか。 かつて、ある研究会で杉江修治氏(中京大学国際教養学部教授)から「協同を方法論だけで考えても駄目だ。協同は学習が立脚する原理なのであって、単なる学習法の一つなのではない。」と指摘されたことがある。教育には「価値の次元(目的レベル)」と、「方法の次元(手段レベル)」がある。「価値の次元」は、先述の例で言えば「伝統教科」である。教科の持つ知の価値を、子ども達に伝達-再構成させていくことが目的とされる。たとえ、効果が低くても廃止の対象にはなりにくい。一方で、総合は「方法の次元」に置かれやすい。だから、「成果が低い、手間の割に効果が少ない」という、効果だけで価値が判断されてしまうのである。 では、協同学習はどうであろうか。杉江氏の主張によれば、「協同は価値の次元にある」と考えることができる。協同学習は効果的か否かという「方法の次元」で語られるべきではなく、あらゆる教育実践を支える「価値の次元」にあると捉えるべきなのであろう。ところが、「価値の次元と方法の次元」の双方を包含した、協同学習の入門書が発行された。「協同学習入門●基本の理解と51の工夫/杉江修治 著/ナカニシヤ出版」がその本だ。協同学習の実践に向かう「理念/哲学/観」と、実践に向かう「ノウハウ、ドゥハウ」が一冊にまとめられている。グループ学習を実践する上の配慮事項や、実践事例をはじめ、学習の見通しの持たせ方や協同学習に適したまとめのワークシート事例なども紹介。協同学習に基づく実践を始めたい教師には、待望の書だと感じられる筈である。また、この本を読みながら、是非自分の授業中の言葉がけや発問について振り返って頂きたい。伝達型のコミュニケーションスタイルが強くなっていないか、子どもに考え合わせる発問や指示ができているかという視点で読んでみると面白いだろう。 “人が想像できることは必ず人が実現できる”(ジュール・ヴェルヌ)という。先ず、この本から「協同に向かう授業と指導のイメージ」を広げてみてはいかがだろうか。広がったイメージ向かって、授業は近づいていくものなのである。 |
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190.同じ様な違うモノ 「同じ(様な)ものが、いっぱいあるでしょ。同じものを何個も買わないからね。」スーパーなどで、玩具コーナーから子どもを引き離すときの常套句である。確かに、子どもの要求に応じて、その度に玩具や本を買っていては、部屋中がものだらけになってしまう。 この、「同じ様なもの」は、本当に同じ様なものなのであろうか。「あのね、この○○は生まれた国も違うし、得意技も違うんだよ。」大人の目から見れば、同じ昆虫のカードであったり、似たような形の玩具であったりする。しかし、子どもにとっては「別のモノ」なのであろう。先日、出張先の公園で野鳥の写真を撮影している中高年のグループを見た。「あれは、○○カモだよ。あっちは、××カモだ。」僅かな違いを見とり、種類に分けることができる。これが、“分かる“ということである。 授業の中でも、似たような場面を見ることがある。「○○君と同じ様な意見だね(同じではないんだけど・・・)」「この考え方で、みんな一緒みたいだね(いやぼくは違うような・・・)」、()内は違和感を持っている子どもの言葉にならない思い。 大人から見た「同じ様」は、子どもから見ると「違うモノ」であることもある。逆に、子どもにとって違うと見えていたものが、同じ共通点で結ばれることもある。この、同じと違いを汲みつつ、学びの場に生かしていく授業が、子どもの考えを生かす授業なのではないか。先生の授業になるか、子どもと共にの授業になるか。その分水嶺が、子どもの視点を汲めるか否かにかかっている。 |
| 189.「授業-教室万華鏡」 -子どもらしさからその子らしさを汲む- 万華鏡。私が子どもの頃、最もお気に入りだった玩具だ。万華鏡の中の、登場人物(色片)は数も限られており、色形も限られている。ところが、一度筒の角度を変えると、万華鏡の中には予想を超えた世界が出現する。病弱だった私は、頻繁にこの不思議な世界に潜入しては、空想を楽しんだものだ。 参加するメンバーはいつも同じ。個性的なメンバーではあるが、色形が変わる訳ではない。しかし、ひとたび違う仲間とくっついたり離れたり、違う角度で出会ったりすると、全く別の表現と世界を作り出す。どうも、この世界観は何かに似ていそうな気がする。 学級と授業。個性際だつ子ども。その子ども達がいろいろな角度で接し、様々な密度で関わり、多様な温度が生まれる。そう、教室は万華鏡だったのだ。しかも、覗き手は私だけではない。 万華鏡を覗いている私だけが、世界を見ている訳ではない。子どもも教室万華鏡を覗いている。そこには当然教師の姿も入っている。だからこそ、“その子”を通して授業を見ることが大事なのだ。一人の子どもの目線から、教室、仲間、教材を見つめ直すこと。ここを外してどの様な授業検討があり得るのだろうか。 理解研究は事例研究である(波田野)という。分かり方をわかるには、わかりつつある者の視点から授業を見つめ直すことが欠かせない。子ども中心主義もよいが、本当に子ども本位で授業を見ているのかどうか。自問自答する日々である。 「知るためには愛さねばならない。愛するためには知らねばならない(今道友信)」。 この視点にこそ、子どもの学びを学ぶヒントが隠されているのであろう。 |
| 188.授業の実践と理論の一体化に捧げた生涯 -稲垣忠彦先生の死を悼んで- 授業の実践と研究の間には、“見えざる河”がある。実践は現実的で個別の現象である。その具体性故に、論という普遍化の方向となじみにくい性格を持つ。普遍的な論や方法に還元しつくすことができない現象が授業なのである。 では、授業実践を研究する価値はどこにあるのであろう。一般化しにくく、法則化しがたく、形としてまとまりのある論に結び付きにくい授業。一度論理化できても、子どもや教師が変われば、堅い論は実践の多様さに飲み込まれてしまうであろう。その授業をより実りあるものに仕立てていく実践技能を、どの様に高めて行けばよいのであろうか。 稲垣忠彦先生は研究者でありながら実践を尊び、実践者の知を信頼し、子どもの可能性を疑わぬ姿勢で生涯を貫いた希有な研究者であった。それゆえに、迷い、悩み、自己自身の実存的な有り様に煩悶しつつ、生き抜いた先生であろうと推察できる。 私が稲垣氏の著書や論文に初めて接した時、“この研究者の後に私の思考や哲学は必要であろうか”と深く悩んだものだ。授業実践とその分析の背後に見える問題意識は、全くといっていいほど自分と重なっていると感じた。自分が教育や授業を研究する意味はすでに無くなっていたのではないかと思ったものである。しかし、それが自分に対する奢りと、授業実践に対する捉えの甘さ、自分に閉じた問題意識によって、自ら作り出した絶望であることに気がつくまでにさほど時間はかからなかった。なぜならば、実践と向き合うことで自らの無知を知り、問題意識を広げていかされることになったからである。そういう意味では、実践家と教室から考える力の源泉を借りることによって、研修や研究を進めてきたのだと言えるだろう。 「授業研究のまな板に上がることは、誰しもしんどい。教師としての力量だけでなく、人間性をも白日の下にさらされるのだから、ちっぽけなプライドにしがみついているようではなかなか踏ん切りがつかない。できることなら、そこはお互いに触れないで、いたわりつつ歩む道を探そうという気にもなる。 しかし、教師としての力量をつけ、少しでも子どもの可能性を開かせて行く授業をするためには、そのしんどいところでこそ、いたわり合い、認め合い共に歩める教師集団や職場でなくてはならないのだと思う」 この言葉に触れたとき、研究者は実践家に負けぬ真剣さと切実さを持って、授業に臨まねばならないということを、改めて実感したものである。しんどいから逃れるのではなく、しんどいが=真の問い(シンドイ)になるまで考える。論と実践はその延長線上でしか結ばれていかないのである。やがて、真の問いこそが、考える充実と実践に生きる知恵の創造へと繋がっていくのだ。 実践家にとっても研究者にとっても、教育の道を歩き続けることは、シジフォスの罪を生きることに似ている活動なのかもしれない。シジフォスと異なるのは、課された罪ではなく、むしろ自分から背負って歩く過程で伸びる自分と、伸び合う仲間の存在を実感できることであろう。稲垣先生の目指したものを、自分の内なる思いと重ね、自らの生きる力に換えて行きたいと願っている。 |
| 187.協議を支える三つの要 夏期は研修会、研究会の開催が増える。面白いことに、全く違ったテーマの会であっても、度々同じ先生と行き会うことがある。一人で多くの研究会に参加するということは、それだけ教育や授業に関心が高いということを示しているのであろう。こうした先生方が展開する熱い協議からは学ぶところが多い。 ところが、多くの研修会の中でも、熱を帯びた協議になる会があればそうではない会もある。協議のテーマや発言の時間をとっても、無言のまま気まずい時間が流れる。ジャニスの言う自己検閲行為=自分が場違いな発言をしてしまうのではないかという不安が作用しているのであろうか。話し合いは膠着したまま、指導者の講評や紋切り型の締めを司会がして会を閉じることとなる。 反対に、熱気に溢れた話し合いで、新しい知見を見つけ合い、探究し合って行く会もある。会が終わっても、メンバー同士が話し合いを続け、場合によっては二次会に発展することもある。では、充実した協議を行う上で個々に期待される振る舞いはどんな行為なのであろうか。 その要は大きく分けて三つほどある。一つは「ミッション=役割と使命」である。会に参加する責任を感じているということだ。二つは「アクション=具体的な行動」である。静かに座って、聞いているという行為も大事だが、他者に対して働きかけることが対話の充実を生む。そして三つ目は「セッション=会での交流」である。 対話を通して、多様な話し合いに参加していくということである。音楽の世界でも、セッションから生まれた名曲は多い。 知的な刺激を相互に受け合い、メンバーで新しい価値を協創していくということであろう。ミッション、アクション、セッションが揃った時、個と集団の中には更なる“パッション(情熱)”が生まれるのではないだろうか。このパッションこそが、次の学び合いに向けた期待を膨らます源となる。 (2011/8/3) |
186.なでしこジャパンのミーティングとチーミングなでしこジャパンの快挙は国民の期待を超える成果を上げた。諦めない意志の力こそが、奇跡を現実に引き寄せるのであろう。 なでしこジャパンの佐々木監督は、筆者の高校の先輩である。NTT関東在籍時に、寮で時々お見かけしたことを思い出す。当時同級生がこの寮に入っており、佐々木氏のさわやかな話し方が印象に残っている。この、佐々木監督は非常に長い時間をかけてミーティングをする指導者として知られている。また、監督が関与しない、選手だけのミーティングも頻繁に行わせるという。本音で話し合うことによって、より深い思考と信頼関係が共に構築されていくのである。ボールを蹴って走る練習だけでなく、考え合う活動によってゲーム観を揃え、互いの動きや役割を確認する。ミーティングという言語による話し合いが、なでしこジャパンのチーミングを支えているのだ。表現し合う、考え合う、高め合うという活動が、世界一という質の高い成果を生んだのである。 なでしこ世界一のニュースは、日本人全てに喜びと誇りをもたらした。サッカーにさほど関係ないという人でも、うれしさを感じたのではないか。では、うれしさを感じるのはなぜなのだろうか。それは、私達一人一人が、日本人としてチームジャパンに帰属しているという意識があるからであろう。プライドは個の中だけに存在する訳ではない。参加し、所属し、創り合うことから生まれるプライドもあるのだ。 学級づくりも同様である。話し合いは、考え合う力を伸ばすと共に、学級への帰属意識を高め、それぞれの子どもが個性的に育む場となる。個性を伸ばす環境は、個性を認め合える集団文化の中にこそ存在するのであろう。なでしこジャパンの選手が個性を発揮できた要因は、相互の認め合いにあったと言えるだろう。 (2011・7・18) |
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185.サラリーマンの姿に学ぶ「学びの型」のギアチェンジ 講演に出かける時、地下鉄や新幹線内で“学ぶサラリーマン”の姿をよく目にする。語学であったり、資格であったり、あるいは専門的な領域の学びであったり、テーマは様々だ。このサラリーマン達の勉強方法を見ていて、「勉強のパターン」がいくつかあることに気がついた。 どの学びの型が優れているという訳ではない。だが、こうした学びの方法を学びの目的に応じてギアチェンジする能力こそ、本当の学力なのかもしれない。さて、自分はいくつの学びのギアを使い分けることができているだろうか。 |
| 184.教材を共財に高め合う授業 最近、小集団学習を用いた授業を拝見する機会が増えた。言語活動の充実を全教科で取り組もうとすると、あらゆる教科の中で“話し合う活動”が増加することになる。教科的コミュニケーション能力を育てることと同時に、教科的な知識の理解や思考力・表現力を高めることを目指した授業が時代から求められていると言うことだろう。 ところが話し合いを中心とした授業を実践するには、これまで以上に多くの事柄に配慮を必要とする。講義型、教習型、伝達型の指導よりも、繊細で柔軟かつ流動的な要素を持っているのが、話し合いを用いた授業である。 ![]() この図は、話し合いや考え合いを生かした授業の構成要素を整理してみたものである。こうして図にしてみると、対話的な学習の構成要素が見えてくる。多要素から構成される学びである故に、授業者にも子どもの側にも実践-体験を通した熟達が必要となる。対話的学習-学習的対話の体験を通さずに、話し合う力を伸ばすことが難しい。対話的環境の中で対話的な能力を発揮する活動によって、対話的な能力・スキルが身に付くのである。 しかし、小集団学習を行えば、子どもの対話力は本当に伸びるのであろうか。実は対話能力が伸びる小集団学習とそうではない小集団学習があるのではないか。「少数の子どもだけが学習の主導権を握る。」「子どもにとって課題が曖昧で何をどう話し合うのかわからない。」「話し合いがまとまらない上に、最後の答えを先生が出してしまう。」こうした状況は、教材が共財になっていない学習で発生しやすい傾向がある。 ①話し合う前に答えが予測できる②話し合う前に、答えを出す人が決まっている(教師の場合もある)③話し合いが必要である意味が理解できていない④話し合う課題の内容を誤解している⑤話し合う社会性が育っていないという状況によって、課題と探求の意味が分かち持てない場合は、話し合いの意欲も低下してしまう。教師も子ども達も考える内容、仲間、意味を話し合いの共通財産=共財として探究し合うことによって、学びとなる話し合いが成立して行くのである。話し合いの形式を生かすことも大事だが、話し合いの中身と思考の動きが共有されているかどうかに着眼した指導も大切にしたいものだ。 |
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183.“ちょっとしたこと”が持つ教育的価値に気づく 「したい」と「できない」の差は、思いの外僅かである。“ちょっとしたこと”で「したいこと」が「できること」に変わる。“ちょっとしたこと”とは、子ども自身の気分であったり、先生のヒントであったり、仲間からの視線であったりする。この、“ちょっとしたこと”が子どもの自信や学び甲斐を大きく左右してしまう。なぜならば、「したいこと」が「できること」に変化した場合と、「できなかったこと」に終わった場合では、子どもにとって学びの実感が大きく異なるからだ。したいという期待ができたという充実感に変わったのか。それとも、できなかったという喪失感に変わってしまうのか。子どもにとってはこの勝敗の分け目が、将来を左右する要因になってしまうこともある。“ちょっとしたこと”は、子どもにとって大事件である場合も多いのだ。 しかし、「したい」と「できない」の間で揺れているのは子どもだけではない。教師も日々この二つの間で揺れている。こんな授業がしたい、あんな子どもの姿を期待したい。子どもの中から生み出される望ましいその子らしさの発露を願いつつ、日々の授業に取り組んでいるのだ。多様な生活背景や個性を持つ子ども達に対して、多様な個性を同時に発揮させることは容易ではない。それでも、授業という協働空間の中で、子どもの集団と個を同時に育てることを企てる教師の取り組みには頭が下がる思いである。子どもと同様に“ちょっとしたこと”からヒントを得て、子どもを伸ばしている教師の姿には強い感動を覚える。 今年も「授業改善研究会」から“子どもらしさに学ぶ19”という、実践分析記録が届いた。多様なキャリアの教師が互いに自分の授業を材料にしながら、学び合いを通して授業改善を目指しているのがこの会である。この冊子を読んで感じたことは、先ほど“ちょっとしたこと”と書いたことが、非常に重い教育的な価値を持っているということだ。“ちょっとした”子どもの発言、表情や素振り、教師の気づきがきっかけとなって、実践が変わり、子どもの姿が具体的に変化して行く様子が丁寧に追われている。教師の変化と子どもの変化が相互に意味づけられ、実践者自身によってレビュー(再吟味)されている。 「できる」「わかる」という一般的な教育成果に加え、子どもにとって“知識・仲間・教師・自己”の価値を見いだしていく過程まで読み解こうとしている。更には、自らがこれから実践を創造していく上で必要な指導力の有り様まで、仲間と共に考え合っている様子が窺える。授業を記録に残すだけでなく、意味を持ったエピソードとして記憶に残し、未来の授業に活かす。学び合い考え合いながら、児童理解、授業理解、自己理解を協働で実践する教師の姿が「子どもらしさに学ぶ」という冊子の背を閉じているのだ。実践を支えるバックボーン=観は、仲間と磨き合う活動を通すことによって、より高めあっていくことができるのであろう。 (2011/5/9) |
| 182.助け合う文化 人間は助け合うことを前提として進化をしてきた。親子、家族、社会という様々な場で、力を合わせる。個が共通の意図や目的、あるいは方法を他者と共有する活動によって文化は進歩してきたのである。助け合うという活動によって、心の相互乗り入れが可能となる。そこから、活動のエネルギーや新しい知識やより深い思いが生成されて行くのであろう。 新学期に新しい集団として集う子ども達も同様である。クラス編成当初は、「学級がある」という集団の存在の事実だけが子どもにとってのクラスの存在価値なのであろう。ところが、学校生活の中で仲間と関わり合いを深める体験によって、「ある学級」から「学級になる」というクラスの存在理由を醸して行くのだ。学び合い、教え合いも「学級になる」有効な学びの手段であろう。更に、学級の中に“助け合い”の文化を育てることも、子どもにとって学級と自己の価値を共に育てることに繋がる。助け合いの学級文化は、学級文化全体の進化を牽引する力になる。なぜならば、助け合いに参加する行動を通して、自己有用感を高めると同時に他者への信頼感も高まるからである。 現在の日本社会は地震という自然の力に文字通り揺さぶられている。マスコミでは「日本は強い国である」とか、「日本ならば必ずできる」という希望に満ちた言葉が繰り返し流されている。「強き国、成し遂げられる国」という主張に根拠を与える行為こそ、助け合いの精神、行動である。今こそ、大人が助け合いの姿を子どもに見せる絶好の時ではないか。「国がある」だけではなく、「文化的な質の高い国になる」ために求められている精神が助け合いの精神なのであろう。 2011/4/14 |
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181.≪思い出す≫と≪思いつく≫
≪思い出す≫とは、過去に知り得た既知や体験を再生する思考である。過去に入れておいた情報を蓄積し、必要に応じて正確に情報を再生するのである。一方で《思いつく》という思考もある。これは、過去の再生のみに止まる思考ではない。持っている情報を元手にして、もう一歩深く、もう少し分かりやすく、より明確化した情報に仕立てて行こうとする時に、≪思いつく≫という着眼の瞼が開く。蓄えた知識だけに頼るのではない。自らの思考によって情報の価値を高めて行こうとする時に、≪思いつく≫という知的働きが活発になるのである。
≪思いつく≫ ためには、探求的に情報を処理する態度と能力が不可欠である。同じ組織の中で、同じ様な生活をしていながら≪思いつく≫人と、そうではない人がいる。この差は何によって生まれてくるのであろうか。自分自身も≪思いつく≫能力を磨きたいと願って来た。しかし、≪思いつく力≫、着想できる力を伸ばす方法を見つけることができないまま現在に至っている。 そんな折に、大先輩のK先生から「思いつくままに」という冊子が届いた。内容は一年間に亘り、学校で感じたこと、子どもを見て考えたこと、研修会で知り得たこと、読書によって気がついたこと、部下や同僚が研修で学んだ内容の分析・紹介等が250ページ程にまとめられている。 ①毎日休むことなく継続し ②情報の引用や流用だけでなく、自分の考えや分析を加えて ③行政、学校、研修、子どもの姿、授業、教師、保護者、教育学という幅広い視野を持ち ④説得・指導する者としてではなく、子どもや教師と共感する者という視点を大事にしている 、という四つの哲学がこの冊子には潜んでいる。特に、①②④は≪思いつく力≫を磨く上で重要なヒントになるだろう。≪思いつき≫を時間の流れに任せてしまうのではなく、その時の今日に、まとめ続ける。継続した、情報の焦点化と表現によって≪思いつく力≫は磨かれて行くのであろう。 漠然と思いつくというが、思いついた時点で漠然から焦点化に向かって思考の収斂が始まっているのだ。身近な生活の中から情報を汲み上げ、情報の自分化を図っていくことが≪思いつく≫という思考だ。学びにも覚えることによって学ぶ学びと、考えることによって学ぶ学びがある。考える行為の日常化、習慣化こそ≪思いつく力≫を磨き、維持する基本的条件なのであろう。「一たび、退意生じるは、是、自棄自暴なり(菜根譚)」という。今日は疲れたから、他の仕事をしたから・・・という自己弁護をせずに、考えを具体の行為で表現し続けることが≪思いつく力≫を伸ばす最低限の条件なのであろう。 2011/4/1 |
| 180.指導を支える「捉え」と「促し」 ●指導は学習者の状況を前提としてしか具体化することができない。学習者不在の場で、どの様な指導が良いかと問うと、その答えは抽象的で一般的なものにしかならない。中内敏夫は「教師が教えようとする内容と子どもが既に持っている知識が一致していたら」「教師が教えようとする内容を、一部だけ子どもが知っているとしたら」「教師が教えようとする知識を、子どもが間違って認識していたら」、指導の方法は変化する筈だと指摘している。 指導の具体的な方法や材料は、学習者との接点を視野の外において問うことが難しい。その原因は、○○学習というメソッドの側に学びの本態があるのではなく、子どもと内容との力量関係や適性処遇によって指導の有効性が決まってくるからであろう。 ▲子どもの姿を捉えるということは、指導の基本的条件である。子どもと知識の関係を把握ようとし、子どもと子どもの関係を把握しようとすることから指導は始まるのである。そうして捉えた子どもに対して、学びに促す方法や内容や手順を組み立てていくことが、具体の指導を生む。優れた授業者は、子どもを「捉え」「促す」という二つのステップを蔑ろにすることはない。 ◆嶋野道弘氏は指導には「センス」と「技術」の 二つの側面があると指摘している。そして、この二つは磨くことができる能力だと出張している。このセンスは「捉え」であり、「促し」は技術だと考えることが出来る。 ▼「捉」という漢字は手偏+束であり、手で束にして掴むという意味を持つ。一方の「促」は人偏+速であり、足を速める様に働きかけるという意味を持つ漢字である。教師の指導力は、考え方によって様々な要素に分解できる。しかし、大胆に切り分けてしまうと子どもの「捉え」と、子どもの知的活動の「促し」という二つの部分に集約できると言えるだろう。教育が学習者の存在を前提とする活動である限り、「捉え」と「促し」は指導を支える二重視点なのである。2011.3.8 |
| 179.「練り上げ型授業」の呪縛 ●ここ数年「練り上げ型の授業」を授業の理想だとする声をよく聞く。元々はStigler,J.W.とHiebert,j がまとめたThe Teaching Gapに紹介された日本の算数授業の特徴に由来する表現であろう。一般的には、多様性のある意見を子どもから引き出し、対話を通して一つの知見にまとめていく流れによる授業と捉えられている。練り上げ型の授業は、算数だけでなく、様々な教科で理想的な授業の雛形になりそうな勢いである。 ▼元々、日本の授業を研究した結果導かれた授業の“型”なのだから、それほど珍しい授業スタイルではない。起承転結のある授業展開で、ドラマチックな結に向かって行く授業だ。しかし、旧知の方法ではあっても、急速に新任が増えた様な学校では練り上げ型の授業が難しい新人の先生もおられると聞く。子どもに求める答えをどの様な順序で引き出し、取り上げ、子どもとまとめ上げていくのか。机上の授業設計だけでは、実践に結び付かないのであろう。 ◆ところが、最近授業を拝見していて、疑問に思うことがある。それは、なんでもかんでも「練り上げ授業でなくてはならない」という呪縛に対する疑問である。無理に練り上げ型を目ざし、「練り崩し=まとまりのない授業」になったり、「練り戻し=散々話し合った挙げ句に授業前後で考えに変化が少ない授業」になったりする。そもそも、練り上げは一つの型であり、唯一の理想ではない。子どもと学習内容の力関係や、子どもの対話能力によって、授業の型は変わる。そういう意味で言えば、型は子どもの方から出るのだとも考えられる。 ▲例え、「練り戻し」の授業であっても、考え抜いた結果、学習前と同じ考えに子どもの信念がプラスされれば良いのではないか。あるは、「練り崩し」の授業であっても、その崩れた考えから、子どもが自分で考えの道筋を組み立てていく学びがあっても良いのではないか。教師の意図が「練り上げ」に翻弄されてしまうと、授業で実現すべき“大事な何か”がおざなりにされてしまう。型に縛られ、学びの本質を見失うことがない様にしたいものである。型の中身こそ、授業の命である。 2011・2・24 |
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178.「スタートカリキュラム」のすべて 「子どもの発達段階に応じた教育が大事だ」という指摘をよく耳にする。しかし、子どもの発達段階に応じることだけが教育の役割ではあるまい。子どもの中には教育によって顕在化-活性化する潜在的な発達段階があるはずである。新しい体験や学びによって、子どもの中の学習回路が拓かれて行く。教育は子どもの成長と発達に応じつつ、より積極的に子どもの学ぶ力を開発する力も持っている。例えば、「年上の子どもと交流を持つ」という新しい経験が、異なる年齢の他者と交流する力を活性化させていくのだ。子どもに内在する可能性は、環境からの積極的な働きかけによって、より具体的な膨らみを持つのであろう。 学校という場(環境)と子どもの出会いも、子どもの伸びる力を刺激する材料となる。時にはその環境が有する刺激が子どもの持つ力を越えてしまったり、相性が合わなかったりすることもある。近年よく耳にする様になった「スタートカリキュラム」は、こうした学習環境と子どもの成長の齟齬を調整する役割を持っている。小1プロブレムというが、プロブレムは子どもの側だけでなく、カリキュラムの側にも存在したのだ。生活科という柔軟で体験的な学びを中心としながら、子ども本位の学習を創造していく。それは、子どもの生活を学び化(文化化)し、学びを子どもの生活としていく挑戦でもある。 『「スタートカリキュラムのすべて」木村吉彦 監修 ぎょうせい刊』は、学校側のプロブレムと子ども側のプロブレムを学びに昇華させていく処方箋である。スタートカリキュラムの重要性を裏付ける論、実際の具体的実践事例、さらには実践例から得られた成果や特別支援教育との連携、行政の取り組むみまでが網羅された内容だ。低学年を受け持つ教師だけでなく、学校全体で読んでおくと子どもの育ちと学びを支える指導観を共有できる。 教育は“子どもを学力化すること”を主眼にしがちである。だが、一方で“学びを子ども化する”という視点も忘れてはならない。スタートカリキュラムへの取り組みは教師にとっても、子どもの育ちに根ざしたカリキュラムへスタートだと言えるだろう。 梶浦 真 |
| 177.“観”から“見”に降りる ●今年は年始から研究、研修の立ち上がりが例年より早く感じる。 新指導要領への対応を具体的に進めたい。そんな先生方の思いが、研修の取り組み姿勢に現れている。 新しい指導要領へ移行するたびに、毎回同じ話題が持ち上がる。新指導要領で授業の姿がどう変わるのかという話題である。 ●それでは、指導要領の記述が変われば、授業が変わるのだろうか。指導要領の記述が変わり、記述の変化の意味を理解し、授業に持ち込み、教材選択や学習内容、授業設計を変えていく。だが、授業は言葉で改善の順序を追うほど簡単には変えることができない。これまでの授業観や実践を進める教師のスタイル、そして、目の前の子どもも急には新しい変化に付いては行けないからである。 ●こんな時、お勧めしたい研究方法が授業検討会だ。生の授業を共通の軸にして、授業観と子どもの学びの観を明らかにしていく。授業というリアルな空間を教師が共有しながら、学びの諸相を読み解いていく。子どもの発言や指導言(発問-指示-説明)を分析する。伝達講習や論理研修も大事だが、生の授業から新しい授業の構成を分析してみることも大事だ。抽象的な記述を具体的な事例と結びつけて行くことによって、授業の抽象と具体が結びついていくのだ。 ●授業観や学力観という、“観”が一致しにくい時は、“見”に戻るとよい。人生観、人間観、学力観など、観は目では見えにくい価値を表す場合が多い。いわば、観は心眼的な見方である。一方で、見学、見物など“見”は眼に見える現象を中心に見る。観という抽象が見えにくい時は見という具体に降りる。教育“観”の共通理解を促す“見”の窓口が授業である。 2011/1/25 |
| 176.天岩戸神話と集団の知恵 ●日本では神代の時代から、話し合いが知恵を生むと考えられて来た様だ。天の岩戸神話では、神々の話し合いが問題解決につながる様子が見事に表現されている。 ●天照大御神を岩戸から招き出すために、八百万の神は相談をする。そして神々の話し合いによって生まれたアイディアが、長鳴鳥を鳴かせたり、アメノウズメが躍ったりするという作戦として実行される。最後はアメノタヂカラオが得意の腕力を使い、天照を岩戸から引き出すという話の展開は周知の通りである。神々が話し合って知恵を出し合い、それぞれの神が自らの個性や能力を生かして、天照の心を外界に向けて開かせて行くのだ。話し合い、考え合い、高め合う神々の姿は集団による知恵の創出を象徴している様に見える。 ●更に、この神話で象徴的な点は、天照が「鏡に映った自分の姿に気を奪われて岩戸の外に踏み出す」という部分だ。天照は自分よりも偉い神が来たと聞かされて鏡を見る。しかし、そこに映っていたのは自らの姿だったという。神々との対話を通して、天照は自分を見いだすことになるという結末は何を意味しているのか。それは、個が他者と関わることを通して、自分の個を見いだしていくということを意味するのではないか。 ●神々ですら相談を通して知恵を創るのである。まして、凡夫である自分は今年も多くの人々と対話を通して学んで行きたいと願った初詣である。(2011/1/4) |
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175.沼津第一中学校のみなさんへ 先日は真剣に講話を聞いてくださり、ありがとうございました。 ●夢がある人は夢に向かって今日の挑戦をする。夢や目標が決まっていない人は、今日一日少しでも何かに挑戦することを目標にする。夢を持っていないことは悪いことではない。自分で夢を創って行くことが大事。まず、今日一日の挑戦をする。挑戦すると進歩がある、進歩があると自信がつく、自信が付くと挑戦したくなる。 ●自分と仲間を大事にする。自分を大切にする人は、友達も大事にできる。どの様な社会に出て行っても、心を許せる友を持つこと。そこから、困難に打ち勝つ希望や、互いに励まし合う助け合いが生まれる。自意識過剰になると身動きがとれなくなる。みんな、自分のことに一番関心があり、それほど他人のことは気にしていない。相手に関心を向け、相手を大切にすることで互いが大切な存在になる。今、目の前にいる仲間を大事にしよう。 ●とにかく、自分の可能性を信じよう。私の様に、子どもの頃に全く勉強が出来なかった人でも、少しずつの挑戦で大きく変わることができた。誰でも、最初からできる人はいない。今できないことでも、明日にはできる様になる可能性を持っている。その可能性は、今日一日の挑戦から広がる。可能性の引き出しは、日々の小さな挑戦によって開く。 「自信をなくすことは、自分に対して盗みを働く様なものだ」ということわざがあります。小さな挑戦で自信を掴み、仲間と励まし合い、自分の持つ可能性が目覚めていけば、なりたい自分に近づくことができます。自分さがしは自分づくりです。みなさんの可能性が希望の実現に繋がることを信じています。 2010/12/9 |
| 174.指導力の向上と“共変わり” ここ数年、教師の年齢構成が徐々に変化を起こし始めている。教師の世代交代が進み、若い先生を迎える学校も増えている。世代交代に伴い、教師の指導力を次の世代にどう伝えていくかが教育界全体の課題になっている。 「指導力」は ①人と人の間で伝えることに適した能力である。=文書や文字だけでは伝わりにくい高度-高次な能力を含む力であるため。 ②伝える側と、伝えられる側の互恵的熟達関係が乏しいと、伝わりにくい。= 主に教え伝える側の教師と、学び手である若い教師が共に認め合いながら、協学していく必要がある。 ③抽象的な論と、具体的な教育活動を意味づけながら納得世界を構成する。個別の事例と、子どもー学びの普遍性を自らの論考によって、結びつけていく。 という、非常に理想的かつ本質的な環境-状況を通して伝えられていくのである。 興味深い事は「教えることによって自分自身が充実した」という、ベテラン教師の声を聞くことだ。 中国最古の歴史書「書経」の中に、“教うるは学ぶの半ばなり” という言葉がある。一般的には、他人に教えることは自分が学ぶことにも繋がると解釈される。しかし、学びという行為には、「教わって学ぶ学び」「教えて学ぶ学び」二つの側面があると解釈することもできる。教える学びが学びの半分であり、教わる学びも学びの半分である。双方が揃ってこそ、「学びの全体性」が維持されるとも考えられる。 教えた方だけが変わるのではなく、教わった方だけが変わる訳でもない。双方が“共変わり”していく実感が伴ってこそ、指導力の伝えが成されていくのだ。教師の世代交代は多様な危機も孕んでいる。だが、その反面では生きる価値を協創する契機-可能性も提供しているのである。この可能性に賭ける者こそ、学びの実感を得ることができる。 |
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173.「試」(子どもの質的な成長と学習評価) 「試」という漢字は、“きまりや形式”を意味する音を示す「式」と、言葉を意味する言偏から成る文字だ。決まった手続きや方法に従って、言葉で応えるという意味を持つ。A問題のテスト形式では国語や数学という教科の知識構造に基づき、基礎知識の定着が試される。B問題では同様に、この知識構造を背後にした応用力が試される。試験という文化的形式によって、計れる学力の性質が枠付けられるのだ。計られた学力は、計られた方法に縛られる。 子どもの発達や能力の伸びは量的な拡大だけではない。質的な変化が伴うのだ。「今日は答えが出せなかったよ。でもね、図形の問題を考えるのはすごく頭を使って、つかれるけれど面白かった(三年生)」。結果が出る学びだけが子どもを育てる訳ではないのだ。この質的な変化は時として「試験の形式や決まりの枠を超えてゆく」のだ。テストの結果からだけでは捉えきれない「子どもの伸び」をどう捉えるのか。この伸びを捉えることが教師自身の教え甲斐や、次の一手の指導を適切化する策が生まれることに繋がる。 伸びる子どもに「試されている」のは、私たち大人の方なのかもしれない。 2010・9/3 |
| 172.有岡陖崖氏の指導と伊豆-下田小学校の授業研究 “分かる”という言葉の語源は、“分かつ”であるという。私が空の雲を見上げても、数種類の雲の名しか分からない。似た様な形の雲はどれも同じ種類の雲に見えてしまう。文字通り、雲のことが分からない-分けて見とることができないのである。物事を分けて捉える思考行為を分析という。分析の析という漢字は、木+斤(おの)を表し、木を斧で割るという意味を持つ。物事を分けて考える思考の在り方を表現した言葉が分析という言葉なのだ。ちなみに、英語では分析をAnalysis(アナリシス)と言う。これも、語源の意味はバラバラに分解して考えるという意味を持っている。 先日、高名な書家である有岡陖崖氏の指導場面を拝見する機会があった。弟子の書いた漢字を見て「ここは思い切って堂々と」「この点はなんとなくではなく、しっかり揃える」「この大きさでは、作品の良さが見えてこない。もっと大きく書ける紙で、大きく表現する。そのことによって、文字も意味する言葉も表現力を持ってくる」、と朱を入れながら指導を加えて行く。私の目では、どの文字も達筆に見えてしまう。文字の何処を直せばさらに良くなるのか、検討もつかない。書の善し悪しを分析して、分けて捉えることができない。つまり、私は書が分からないということである。 授業研究でも、“授業が分かる教師”と出会うことがある。「あの子どもの発言を今、拾っておかないと、後で辛い展開になる」「指示が明確で単純すぎて、冷えた授業になるぞ」「例題の組み合わせが悪いな。納得できない子どもへの説明が多い授業になるぞ」。そして、こうした授業が見える先生の予測通りの授業展開をしていくことがある。こうした先生方は、授業のどこを見ているのだろうか。 先の有岡氏の書道道場では、弟子達が先生を囲み、書に対する評価を聞いていく。書という思考の焦点を共有しながら、書の見方、評価を実技的に学んで行くのである。 伊豆-下田小学校の授業研究では、教師が子どもの思考の流れを推察し、学びの見とりを語り合う活動を通して、授業を分析して行く。教師が互いに児童観、教材観、授業観を交換し、磨き合うのだ。分かるという行為には、一人で分かることだけでなく、共に分かり合うという分かるもある。先輩と後輩との間で、あるいは人事異動で新しく下田小に赴任した先生と在職が長い先生との間で、子どもと教材と指導を分析し合って行くのだ。そこには、学び合う専門家としてのプロ教師が相互に高め合い、認め合い、究め合う姿がある。書が分かる目も、授業が見える目も、人と人の間で互恵的に創られていくものなのであろう。 2010/8/3 |
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171・「教師力を高める教師の協同」 「協同学習は本当に必要なのか。個別指導や少人数指導の方が効果的ではないのか。」この問いは、協同学習の実践に取り組もうとする学校で良く聞かれる問いだ。だが、この問いは無邪気であると同時にナンセンスな問いでもある。なぜならば、学習とは子どもの社会参加を期待-前提として行われる行為だからだ。 ①社会は協同的な活動体であり、個が知的行為を実践するためには社会参加が不可欠である。 社会は協同性を持った活動体だ。社会は協同という活動様式を持っている。ここに参加できる能力を育てて行くためには、社会性を帯びた学び体験が不可欠となる。いわば、社会のOperating Systemが協同であり、その上で動く人や知も協同性を前提とせざるを得ない。「協同学習は他の学習よりも素晴らしいのか」という問いは、「水の中で魚を育てるよりも素晴らしい方法はあるのか」という問いに似ている。社会の中で具体の協同を生きる子ども達の学びは、協同を方法としてではなく原理として位置づけるべきである。実社会という海はコミュニケーション的行為という水で満たされているのだ。 しかし、実際の学校における「協同学習」の実践は、容易ならざる側面も持つ。それは、目指す授業像が個に偏重した視点で捉えられていたり、協同に適した評価や教材の変形-加工などに馴れていなかったりすることに起因する。協同学習を充実させる指導の視点はこれまでの指導法よりも広く、捉えにくいと感じる場合もある。こんな時、先行の実践事例や指導に向けた考え方を参考にできれば、協同学習に挑戦するハードルを低くすることができるであろう。 |
| 170.新刊発行 『授業が見える漢字のはなし』 ~文字に潜む学びのこころ~ はじめに 私達は日常生活の中で、当たり前の様に文字を読んだり書いたりしてきた。あまりにも身近で日常的な存在であるが故に、それぞれの漢字個々が持つ意味世界について考える機会は少なかったのではないか。ところが、漢字に込められた意味を読み解いていくと、非常に深い先人の叡智が潜んでいることに驚かされる。 教育に関わりが深い漢字の中には、現代教育学の知見と合致する様な意味を持つ文字も多い。漢字を創った中国古代の人々は、認知科学や教育学を知っていたのだろうか。そう思えるほど、学びや指導の本質を掴んだ意味を含む漢字がある。教育に関連が深い漢字の中には、教育の本質に触れる意味を持つ文字が多い。 元来、私は漢字の専門家ではない。しかし、講演などで、漢字と学習や指導との接点を語る中で、漢字と学習指導との深い関連に気付く様になった。漢字の成り立ちに絡めて、教育や授業、学びの諸相を考えると、自分自身に説明がつきやすいのだ。この本では、「漢語林-大修館書店」を元に、漢字と学習指導との繋がりを意味づけてみた。 漢字の持つ意味世界から見る、授業や学びは、より深く教育の本質を感じさせてくれるだろう。漢字の成り立ちに潜む様々な物語が見えてくると、漢字に込められた意図や願いも見えてくる。心に残る言葉もあれば、言葉に残す心というものもある。文字はいつの世も、人の思いや念と、密接に結びついているものなのだ。教育に関わる者が、漢字の成り立ちを通して自分の思いを見つめ直してみることも楽しいのではないだろうか。生徒に使わせるだけではなく、「漢語林」を教育的に読み直してみると新しい発見がある筈だ。 尚、これまで拝見した授業の中から、子ども達の発言や先生の指導言もエピソードとして使わせて頂いた。これまで授業を見せて下さった先生方に、謝意を表したい。 |
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169.N校長の危機管理と危機関知 先日、日頃からご指導を頂いている静岡のN校長からメールが届いた。新年度から中規模校から大規模校へ異動したという知らせである。大規模校に異動して、日常業務が圧倒的に量的に増加した。その結果、校長業として危機的な状態に陥ったという。N校長の言う、校長としての危機とは、具体的にどんな内容を持つ危機なのであろうか。それは、「子どもと接し、向き合い、語り合う時間が激減したことだ」という。子どもと接する時間が減少したことを、校長業としてピンチだと感じる教育的感性に敬服した。 学校には様々なピンチや危機場面がある。昨今、危機管理という言葉が学校経営の中心的な課題になっている。しかし、危機を管理するのではなく、自己を管理する自己が存在しなければ危機管理は機能しない。危機を察知し、何を危機と捉えるかによって、危機への対処方法は変わってくる。学校という組織の危機管理も重要だが、自分の状態を俯瞰的に捉えてピンチを感じるセンスを磨かなければ、真の危機管理はできないだろう。危機管理以前に危機関知能力が問われるのだ。 今から10年ほど前、O先生という大校長が勤務先の近くに住んでいた。土日なく働いていた私は、土日に度々この校長先生の姿を見かけることがあった。「先生、どうして土日に街の中に出ているのですか」と問うと、「君ね、校長はね生徒と職員を見失ったらアウトだよ。生徒を知らない校長なんて、自分の工場で何を創っているか知らない工場長みたいなものだ。子どもを見つけるために、できるだけ生徒のいそうなところを見て回り、学区内の危険箇所も同時にチェックするんだ。自分の目で確かめると、別の危険や別の生徒を発見することがある。」と言うのである。 学校の危機、教育者として自己の危機に気づく力は、質の高い校長力の必要条件であろう。炭鉱のカナリアの如く敏感な教育的感性と、自己評価によって自らを修正する力はどこから生まれてくるのだろうか。それは、教育者として進歩を続けたいという内なる願いと、子どもに対する愛おしみや、職員の働きに応えたいという思いからであろう。N校長の感じたピンチは、学校に関わる人々を感化する潜在的な力になると直感した。N校長の如き対人的感性は、学校組織の教育的な質を高めていく原動力である。 |
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168.教育実践を深める「絆」 人間にとって、自分の行いを客観視することは難しいことである。スポーツの達人や芸術のエキスパート達はハイスピードカメラやビデオで自分の姿を撮り、自己分析に使うこともある。古典芸能などでも、姿見の大鏡に自分の姿を映しながら練習をすることがある。自分で自分の動きや、音楽の表現、言語の語りなどをチェックするためには、自己を客観的に見る必要があるのだ。自己を修正するには、今の自己を知ることが必要である。授業研究でも、授業のビデオ記録が使われるケースがある。これは、授業を客観視し、加えて研究会で授業情報を共有する目的から使われる。 だが、教育ではカメラなどの機械の目を通した客観の目以外にも貴重な客観情報がある。その客観情報とは、「人」との関わりによって見えてくる、他者のフィルターを通した自分の姿である。教師においては、「子どもとの関わり」「同僚や先輩との関わり」「保護者やその他の大人との関わり」を通して見えてくる私がある。子どもの発言やつまずきにどう応じた自分だったか。保護者の指摘にどう応えた自分だったか。そして、同僚や先輩との関わりで何を見いだした自分であったか。人と私との関わりで見えてくる自分情報には、自分を知り、変えていくヒントが詰まっている。 先日、筆者の手元に「子どもらしさに学ぶ 18(授業改善研究会:山本清人会長)」が届いた。多くの実践家の実践記録と自評が収録されており、毎年発行を楽しみにしている冊子だ。この冊子を読んで、『他者と自己の絆を創造すること』が教育実践の要であり、授業改善の資源になっているという実感を得た。子どもとの関わりが深まることによって、“教師としての私の活動”が具体化する。具体化した教育活動は、同僚や先輩の教師との協議で読み解かれ、実践者を含む教師の財産へと変わる。そして、この協議を通して教師と教師の絆も強まって行くのである。子どもとの絆の強まりで実践が深まる教師。実践を実践協同体として読み解き合う活動によって、指導の財産へと次元を上げていく教師相互の関わり。こうした、人と人の絆の持つ人間的な価値が、「子どもらしさに学ぶ 18」の中から伝わって来る。 人と人の結びつきは、相互性にその本質がある。一方的な関わりは縛りであって、絆とは言えまい。「絆」とは糸+攀から成る漢字であり、“しっかりと結びつける”という意味を持つ。互いに結び付くことによって、人の絆は結びつきの質を高めていくことができる。教育が人と人の間で行われる行為であるかぎり、人と人の相互的関係が教育活動の基盤であり原理なのである。「子どもらしさに学ぶ 18」から、教師らしくなる、教育を人間の行為として見つめ直す実践家の生き方が見えてきた。 2010・5/26 |
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167.言葉が生きる環境-子どもが生きる環境 経団連から新卒採用(2010年3月卒業者)に関するアンケート調査結果の概要が発表された。会員企業(回答企業425社)の採用選考時に重視する能力の第一位は、今年も「コミュニケーション能力(81.6%)」であった。これに続き、「主体性(60.6%)」「協調性(50.3%)」などが、企業の人材に欲する能力として挙がっている。 コミュニケーションという相互活動、主体的に活動を企画―参加―調整する力、他者との関係性を築き活動を調整し合う能力。これらの能力は、「他者と具体的な活動に参加し合う」という、実質的協働性を対象にした能力だと言えるであろう。語る他者を持たないコミュニケーション。社会から孤立した、あるいは無秩序な主体性。反応的同調を指向する斉一的合同。協働という関係性が希薄になると、コミュニケーション―主体性-協調性は無意味なコトバに堕してしまう気がする。 GW が終わり、仲間と再会した子どもたちは何を語り合うのだろうか。仲間と共に、互いに語り合う。こうした対話が、子どもたちの心の中で真のゆとりを生み、表現し合い考えあう場を創る。語り合い、考えあい、分かり合う活動が「社会の求める力」の育成にも繋がる。やがては、子どもの将来を切り開く能力の基盤にもなるのであろう。 |
| 166・記述の指導、三つの類型 「とても考えられた問題ですね」「B問題は馴れないと大人でもやっかいな問いですね。」学力テストが終わり、先生方からは様々な感想が聞こえてくる。「難しかった」「意外と簡単だった」と、子どもの方の反応は様々だ。国語のB問題は、大人から見ても難しい問題だという感想を多く聞く。必要な情報を取捨選択し問いに答えていくという、頭の使い方に馴れていないため、難しく感じるのである。 言語力は状況依存性の強い能力だ。「体育の時は言えるんだけど、国語になるとオレはダメだ。国語では信用されてないしね。」これは、先日ある小学校での子どもの呟きだ。少し状況が変わると、それまで言えていた言葉、表現がでなくなってしまう場合がある。言語力はを言葉を使用する状況や文脈から大きな影響を受けるのだ。国語はいつも100点、でも、友だちとは話すことができないという子どももいる。 指導要領には「描写・要約・記録・紹介・説明・報告・対話・討論」という多様な言語活動の事例が示されている。それは、言語を使う状況の多様さへ対応した指導の必要性を意味している。私は、例示された全ての言語活動を行うことよりも、①目の前の子どもに不足している能力から重点を置く部分を焦点化する②教師が得意な単元、馴れた題材から考えていく③活動を通す前と後でどの様に子どもの能力が伸びるのか、効果の予測・見積もりをするという、三つの点が重要だと考えている。 特に、記述の学びについては、B問題的、読解力検定型の学習に偏重せず、 ①テキストを読み解いて問に対して答える=読解-解答型の学習 与えられた情報を問の内容に沿って読解し、解答していく学習。B問題型学習。 ②自分の考えや思いを記述し、目的に応じてまとめる=創造型の学習 自分で文章や表現を生みだしていく学習。アウトプット型の学習。表現の創造。 ③記述した内容を元に、話し合ったり、考え合ったりして、考えを深めていく学習=記述―対話型の学習。「聞く-話す-書く」を繋げていく。読書も「対話や記述」に繋げることができる。多様な言語活動を行うことだけでなく、「聞く-話す-書く」という活動を繋ぐことで、指導の効率も上げて行く。 という三つの「言語的な頭の働かせ方」を大切にしたい。 問われた問いに答える思考活動だけでなく、自ら考え、問を創り、考えを創り合う主体間の活動に参加をする。書くという行為が、考える私を創出し続けて行く。表現を創ることによって、子どもが自らを築いていける様な学習を構想したいものだ。 2010.4.23 |
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165.優気を勇気に変えるボランティアの基礎知識 「できない」という時、できない理由は概ね二つである。一つは知識や技能が足りない時。もう一つは意欲や動機が高まらない時である。知識・技能と意欲は行動を起こす力の両輪である。この二つが、できそうだ、やってみよう、やる、という行動を生みだしていく。 教育の役割の一つは、行動に向かうハードルを下げるということだ。ここで言う行動は具体的な行動と、頭の働きとしての思考の双方を含む。「できそうかな」という可能性が持つ期待感は、様々な行動に繋がって行く。学んだことが具体的な行動や活動として主体的に構成された時、学びが生きる力に昇華したと言えるのではなかろうか。 「S市の駅に行った時、白い杖をついた人がいた。何か手伝ってあげたかったけれど、何ができるかわからなかったので、なにもできませんでした。」これは、かつて福祉をテーマにとり組んだ小学校・総合での子どもの発言である。「なにもできませんでした」という言葉からは、この子どもの優しさと無念さがにじみ出ている。この時、目の見えない方に接する知識や技能が少しでもあったならば、この子の行動は少し違ったものになった可能性があるのではないか。 「イラスト版 からだに障害のある人へのサポート(横藤雅人 編 北海道生活科・総合的な学習連盟ネット研究会 著 /合同出版 刊)」は、正にこうした子どもの行動に向かうハードルを下げる本だと感じた。肢体に障害を持つ人から、視聴覚機能の障害、そして認知的な困難を抱える方に対する接し方が具体的な図を使って説明されている。更には、なぜそうした接し方が必要なのか、接し方の根拠と理由も示されている。人の障害には多様な程度や種類がある。その障害の個性に応じて接する上で必要な知識や技能の基礎を予め知る。予備知識が子どもの優気を勇気に変えるのだ。小さな勇気が行動に変わり、行動をした子どもは自己有用感と優しさを一層膨らませて行くことであろう。 この本は総合的な学習は勿論、一般の家庭や企業などでも教育や研修に使うことができる内容を持つ。障害を持つ人に接する側が行動のハードルを下げることは、ノーマライゼーション社会の実現に繋がる。やがて、多様な人々との関わりを通して、自分自身と向き合うことも学ぶのである。本書は、現実の福祉活動に参加する実践的入門書だと言えるであろう。 |
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164.実用から生まれる習得 近年、地域によっては外国人の児童・生徒が増えている。外国人の子ども達が突き当たる問題の一つが、言葉の問題だ。両親が日本語を話せず、家庭では母国語ばかりで会話が進む。こうした子ども達の中には、日本語の習得が早い子どもとそうではない子どもがいる。日本語の習得が早い子どもに共通する傾向は、「友だちや先生とのコンタクト意欲が高い」という点だ。 手持ちの語彙は少なくても、知っている言葉を使って仲間に関わっていく。関わりの中で、知っている言葉を使いながら、使える言葉を増やしていく。更には、相手の言葉を聞き、自分で使えそうな言葉を取り入れながら、まねたり試したりしながら使える言葉を増やしていく。語彙が豊富な子どもよりも仲間との接触や対話を好み、社会性が高い子どもの方が日本語の上達が早いというケースは多い。言葉を使う必要がある「関係」を創れる子どもは、実践的な対話力を伸ばして行きやすいのである。 「言葉や知識は知らなければ、使えない。だから、教える言葉や知識を教えることが先だ。」という、知識先行論は今も根強い支持を得ている。だが、言葉や知識を習得する目的で子どもが存在する訳ではない。子どもが、仲間に自分の考えを述べたり、意志を実行に移したりする目的で、言葉や知識が必要になるのだ。言葉や知識を使う主人公は子ども自身である。言葉も知識も、実際に使いながら身に付くという性質を持っている。実用と習得を行き来したり、併行させて行くことで子どもの能力は実力を帯びていくのであろう。 |
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163.「指導力を創造する具体-抽象-具体の環」 教育界では「具体的でわかりやすい」という表現をしばしば聞く。一般的には、具体的な内容を持った話=わかりやすい話と捉えられている様だ。ここで言う「具体的な内容」とは、ある教師の体験であったり、ある子どもの変化であったりする。実際の教室で、実際の先生が子どもと共に実際に経験したり体験したりした事例を、具体的と表現することが多い。こうした、具体的な話には、実践の前と後の変化が具体的に盛り込まれているという特徴がある。できない子どもができるようになった、見えなかった子どもの活動が見える様になった等々。子どもや教師の“変化の前と後”が理解しやすく対比的に表現され、変化の要因も象徴的に示されていることが多い。 こうした、具体的でわかりやすい事例は、聞く者に強い印象を残す。事実の持つ具体性と、変化の様子とが現実的に感じられるためであろう。しかし、具体的でわかりやすい事例は、自分の実践に置き換えてみようとすると、急に見えなくなってしまうことがある。あれほど感動し、自らも行ってみようと思った実践が、実行に移そうとするとつかみ所がわからなくなってしまう。具体的な事例は、その場、そこで、個性的な一回限りのドラマとして生まれている。再現をしようと試みても、同じ様な状況を別の場で再現することは難しい。たとえ、同じ場所、人であったとしても同様の状況を再現することは困難だ。それ故、具体的でわかりやすい事例は、想像以上に再現が難しいのである。 具体性が過剰になると物事は見えにくくなる場合が多い。生活科や総合など、具体的な活動そのものを学習の基盤に据えた学習も、その具体性故に捉えにくいことが多い。対話や協働など、子どもが他者と関わり合う活動を通した学習も同様の傾向を持つ。生き生きとした、熱を帯びた話し合いの学習は、その時、その場所でのみ実際に起きた現象なのだ。具体的で個別の優れた授業から要素を抽象化、一般化、汎用化して、どの学級でも同様の学習状況を再現するということは相当に難しいことだ。同じ指導案に基づいた指導であっても、実践を共にする教師と子どもが変われば授業も変わる。では、優れた具体的で個別の実践は、他の教師の実践づくりには役立たないのであろうか。 具体的で個別の教育実践には、その中から何かを掴もうとする人間にしか見えない部分がある。また、同じ実践から得られる教育的知見は、知見を得ようとしている教師の力量や眼力によっても異なる。具体的な優れた事例は、読みとり手の知的な咀嚼、消化によって読みとり手の指導力に変わって行くのである。そして、読みとり手が自分の実践の中で、得られた知見を自分の指導として使って行く行為によって、再び優れた授業が具体化していく可能性を生むのだ。具体的な事例から要素を抽象化し、自分なりに抽象した知見を実践として具体化する。この、具体-抽象-具体を繋ぎ続けて行くことが、指導力の向上に結びつくのであろう。 |
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162.校長室の“ふりかけ”に潜む教育的戦略 ①このふりかけは、子どものアレルギー等に一切影響しない製品を調査して選んでいる。 この小さなふりかけを媒介として、子どもと教師、子どもと家族、家族と教師が繋がる。そして、子どもの体験は、学校での楽しい思い出として子どもの心の中に残っていくのだ。見えざる関係に着目し、ふりかけに教育的戦略を潜ませた校長は、真の人間通だ。人と人の間を繋ぎ、心を通い合わせる戦略は見事である。人と人の関わり合いを生かした教育は、目に見えざる繋がりをイメージし、実現しようとする意図から生まれるのである。(2010・2・15) |
| 161.“学ぶわたし”を創造する学び
生活・総合新時代-授業で語る新学習指導要領(北海道生活科・総合的な学習教育連盟刊) わかり方を変えるためには、かかわり方を変えるとよい。かかわり方によって、既知は未知の窓口に変わる。身近な商店や公園、交通機関やそうした場所で働く人々。子ども自身が既に知っていると思っていた、モノやコトやヒト。それらが、学びを通して子どもとかかわる活動のなかで、問いを生み、探究の意欲を喚起し、新たな未知との出会いに向かって行く。だが、具体的なかかわりを生かした学習のよさは、意外と理解しにくい面も持つ。 地域のことを本で調べて学ぶ。調べたことを覚える。覚えたことを、他の地域の特徴と比較する。この様な抽象的なわかり方も学習を進める上で大切な意味がある。しかし、対象と関わって学ぶ、具体的な状況や個性的な現象を通して学ぶという、具体的なわかり方を通した学びも大切にしたい。質の高い生活・総合的な学習は、子どもの知り方やわかり方、理解の在り方を拡げ、深め、“学び、考えるわたし”を創造していく力を持っている。 「生活・総合新時代-授業で語る新学習指導要領(北海道生活科・総合的な学習教育連盟刊)」には、学びを通して変化をしてゆく子ども、教師の姿が織り込まれている。ヒトや地域などと関わる活動によって、気づき、思い、考えを確かにしてゆく子どもの姿。そして、子どもの変化を読み解きながら、活動環境をマネジメントしてゆく教師の視点が見える内容になっている。 更には、新指導要領と実践の関係を具体的に繋げて示している点も、読者に気づきを与えてくれるだろう。生活や総合は、その具体性故にわかりにくいという性質を持っている。学びの実態が、「学ぶ主体(子ども自身)」「使われる道具(思考や言語など)」「働きかける対象(問題空間)」という、具体的且つ個性的な要素で構成されている。具体性の過剰によって見えにくい学びを、指導要領の適度な抽象性と結びつけることで、読み解きやすくしている。実践と指導要領の関係を感じ、読み解き、自分の実践として構成していくガイドブックだとも言えよう。本書から得られた気づきは、読者と学びの関係を一層身近にしてくれるだろう。生活の中に学びを見いだす楽しさを気づかせてくれる一冊だ。尚、寺尾愼一氏、田村学氏、嶋野道弘氏の指導講評も収録されている。 梶浦 真 |
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160/しっぽを変えると教育が変わる? 「試験というのは、学校の縦の関係の問題で、ドーアによれば、大事なのは学校教育の内容で、これが犬の本体なら、入試というのはしっぽのようなものだと。ところが、日本の教育はしっぽが犬を振り回している。」これは、中央教育審議会の第225回総会議事録に見える言葉だ。カリキュラムが犬の頭と胴体であり、しっぽ(カリキュラム実行の結果)が評価である。ところが、しっぽである評価が、本体であるカリキュラムを引きずり回しているという。非常にユニークで的を射た比喩ではないか。こうした主張は、目標準拠主義教育の弊害を指摘している様にも見える。 試験の成績や点数、あるいは子どもの行動の変容として机上で客観的に捉えられる成績だけを学習目標の中心とする。競争的な場面では、競走の公平性の維持に寄与する教育評価が重視される。客観性が高く、評価者の判断による揺らぎを回避できる問題を使って、学習評価が行われるのである。作文や対話やディスカッションによる評価が重視されないのは、評価結果に対する客観性、透明性を維持するためであろう。また、「総合的な学習」が批判される理由の根底には、点数と繋がらない学習だという見方があるからではないか。こうして、正答力偏重ともいえる学習が教育の中で幅を利かせていく。 その結果、小学校から中学校に進むにつれ、「点数が上がらない学習は無駄だ」という風潮が強くなる。こうした傾向は教師側にも存在するのではないだろうか。測りやすい学力、目標化しやすい目標を重視した学習ばかりが尊重されることになってしまう。教育活動や学習行為など、あらゆる部分が評価の対象になればなるほど、評価というしっぱは、教育の本体を振り回し続けることになる。 この正月、ある新聞社が学力低下問題をとり上げていた。批判の対象はゆとり教育や総合的な学習などの導入である。その批判の構造を見ると、学力が低い子どもの存在を指摘し、そうした子どもが育ってしまった理由をゆとり教育や総合的な学習の導入にあるとする筋書きだ。まず、できない子どもの存在を指摘し、政治主導の教育による教育改革の結果であるとする。非常にわかりやすく一般受けが良い論理展開だ。だが、最も過密なカリキュラムを実行していた時代には、「できない子」は本当にいなかったのだろうか。こうした論調は魔女狩りに似ている。詰め込みの時代にも、「できない子」を取り上げて、その責任は教育にあるとしていたのではないか。い しかし、そうしたテストで測ることができるという「でき方だけ」に焦点を当てて教育や学力を捉えたのでは、教育のねらいを進化させることができないであろう。こうした、マスコミの記事を読むと、高学歴なマスコミ人が、知識の傀儡(かいらい)になっている気がしてならない。保守的な教育観を再生産することによって、認知的不協和から無意識のうちに逃れようとしている様にも見える。未だに、沢山、強く、繰り返して教え込めば教育効果が保証されるという、行動主義的な教育観から抜け出せないのであろう。 こうした状況は「教育評価」に大きく関係する問題だ。計算の速算ブームは、速く正確に計算できることを重視して評価する学力観が後押しをした。今度は、知識の活用力が重視されると、知識を活用する問題を解く能力を高めたり評価したりする学習が流行るようになった。更には、読解力や記述による問題への回答力が重視される様になり、記述型の問題で記述できる能力が評価の対象になる。 評価には対象とすべき、能力や目標がある。教育活動において、目指す能力や目標が変化すると、評価の方法や対象も変化せねばならない。漢字の書き取りテストでは読解力を計ることはできない。数学の応用問題を解くことによって、数学的なコミュニケーション能力は掴むことができないのである。単純計算のわかり方と、記述問題のわかり方は異なる。わかり方と測り方には密接な関係があるのだ。評価の課題はこの点にあると言える。測り方が目標の達成を握っている限り、測り方が確立できない評価の対象は、教育の目標から排除され易いのだ。 例えば、「他者の考えを聞き、自分の意見を構成する」「教師の指導を受け、自分の考えを加えてまとめる」など、対人的な思考力はどう評価するのだろうか。言語表現やコミュニケーション能力の育成を重視するというが、コミュニケーション能力はどの様に測るのだろうか。この様な、測りにくいが、教育的に価値がある能力を評価する方法や、評価に必要な教師の技能などを議論する時期に来ているのではないか。かつて、論理実証主義者達は「命題の真偽は、検証方法の論理的客観性に基づく」という主張をした。この主張は、「測れない学力は、学力ではない」という主張と論理構造が似ている。しかしながら、論理実証主義の崩壊過程がそうであった様に、客観学力にしがみついている間は、教育の本質に迫る価値目標から乖離したままになる気がする。 現在、中教審の教育課程部会「児童生徒の学習評価の在り方に関するワーキンググループ」において、新しい学習指導要領に対応した評価の在り方が協議されている。観点の整理や、思考、判断、表現する能力を重視した評価の在り方が記述される様だ。そもそも人間を評価するという行為は極めて困難な要素を持っている。だからこそ、評価の文化を豊かに築き、教育としての評価の価値を創造して行きたいものだ。教育の評価は、温度や距離や高さを測るという様に単純ではない。計測機頼みでは評価が不可能であり、評価をする人間の評価力育成も必要だ。しっぽ(評価)を変えなければ、胴体の向き(カリキュラム)が変わらないのだとすれば、思い切ってしっぽを変えてみる。教育改革は、しっぽの部分からはじめた方が成果が挙がるのかもしれない。(2010/1/27) |
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159.「これからの生活・総合」 東洋館出版社 “学習機能付き”と機能表記されている家電製品がある。この家電製品は、何を学習しているのだろうか。過去の使用状況や、作動環境を記録しているのであろう。では、家電製品ではなく、動物や人間の学習機能はどうだろうか。動物には動物の習性、人間には人間の習性に適合した学習機能があるのだろう。人間には、人間らしい学び方が存在する筈である。 人間の習性や発達は複雑な要素で構成されている。従って、単純でシンプルな学習だけでは、人間らしい学びの場を構成することはできない。机上の教材などだけに頼る学習は、痩せた土壌で作物を育てる様な学習になりがちだ。窒素、リン酸、カリだけでなく、多様なミネラルや有機物を含む土壌によって、栄養価の高い作物が育つ。学びでも同じことが言える。体験があり、困惑と判断があり、外界への働きかけから受け取るものがある。机上での探究もあれば、仲間や他者との協議もある。こうした、複雑な要素を持った学びによって、人間らしい学びが構成されていく。 「これからの生活・総合」(東洋館出版社 田村 学 嶋野道弘 編著 みらいの会 著)は、こうした人間らしい学びを構成する一角を担う、生活科・総合的な学習の在り方を問う内容を持つ。子どもの発達の今と未来から、この学習の意味を説き明かし、実践を充実させる指導の在り方を示している。更には、カリキュラムのデザイン力や実行力、評価力という、教師力の向上にも言及している。豊富な実践紹介と学習-指導を繋ぐ分析検証からも学ぶところが多い。実践部分を読み、自分で分析をした後に、本書の検証と比較するという読み方もできる本だ。 近年、“メリット-メソッド主義”が教育の世界に影を落としている。メリット(点数という利点)はメソッド(利点としての点数を上げる方法)と結びつき易いのだ。わかり方と測り方を単純に結びつけてしまう。しかし、人間が生きていく上で直面する問題は、A問題やB問題、用意された読解の問題ばかりではない。本書の中で展開されている“子どもの学び”を読み解いてみて頂きたい。既知の知を確かめ、新しい知識に気づき、自分の知識世界を拓いていく子どもの姿が見えてくる筈だ。既知の知を確かめ、新知に気づき、未知を創造する豊かなメソッドが、質の高い生活・総合の学びの中に存在する。知識に使われる私から、知識を使う私への育ち。我々大人にも求められる学習の在り方が本書に示されている気がしてならない。 梶浦 真 |
| 158.中藤喜八郎氏の言葉 かつて、埼玉には、中藤喜八郎先生という教育界の巨人がいた。県の社会教育課長や旧大宮市の教育長などを歴任。多くの後輩を名教師、名管理職に育てたことから、人づくりの名人、中藤学校とも言われたほどだ。 私がこの先生と出会った頃は、20代後半であった。取材や指導を受けに、時々先生の自宅を訪ねたものである。 その日の中藤先生は、いつも通り饒舌であった。これからは、コンピュータの時代が来る。教員も学校も、コンピュータ時代に対応せねばならない。そんなお話しを伺い、帰ろうとしたときに先生から質問を受けた。「君は何に一番精を出しているか?」というのである。「好きなことに精を出すのは当たり前だ。しかし、精を出すと、精を出したことに対して、やり甲斐が湧いてくるものだ。だから、精を出す対象を探す前に、精を出すことそのことを目標にせよ」というのである。おそらく、当時新聞の営業という仕事に対して、力を注ぎ込めていない私の姿を察しての言葉であったのだろう。不完全燃焼をしている内心を、ぐっと押さえ込まれた様な気がしたものである。 「精を出すことそのものを目標とする。中途半端な取り組みや手抜きは、自分自身を疲れさせてしまう。」毎年年頭になると、私は中藤先生の言葉を思い出す。今年も、精を出す年にしたいと思う。(20101/10) |
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157・メソッドとメリットを超える「協働の学び」 教育のメリット(長所)とメソッド(方法)は密接な関係を持つ。ドリル問題にとり組めばドリル問題に強い力が育つ。記述式の問題にとり組めば記述式の問題に強くなる。この様な、方法と利点を直接的に結びつける指導観は単純でわかりやすい。教育方法の長所(例えば計算の能力を上げること)を期待して、学習方法(計算の反復学習)が選択される。教育の専門家でなくとも、簡単に理解できる論だ。 だが、メリットとメソッドだけに囚われると、見失うものも多い。例えば、「話し合う力」はどの様なメソッドで育てたら良いのだろうか。話し合う力は、メソッド学習で育てることが難しい力である。話し合いのルールやスキルを暗記させたり、教え込んでも話し合う力の伸びは期待できない。話し合える仲間との関係や、話し合うテーマの切実性や真実性の高低、子ども達の対話力の実態などを鑑みなければ話し合いの場は充実しない。話し合う力は、話し合う活動に参加する学びを通して育つのである。 立川市立立川第五小学校では四年間にわたって、学び合い、高め合う子どもの育成を目指して研究を進めてきた。研究の中核に据えた指導法は「協働学習」だ。協働という学習方法は実践者の指導力によって、成果が大きく変わってくる。課題設定やグルーピング、ヒントの出し方などによって、学習の成果を高めることができるのだ。教師自身が“質の高い協働学習の場を生み出そう”という意識を持たねば、協働の学びは充実した成果を残すことが難しい。教師の主体的なとり組みの態度が、協働学習の出発点であり成果の源泉でもある。 この1月21日に、同校では研究発表会を開く。研究で見えてきたことは、協働学習の「豊かなメリット」だという。考え合いによって思考が深まった、学ぶ意欲が高まった、自分の意見がしっかり持てるようになった、など、子どものふるまいや活動の様子から協働学習の成果が見えるという。「意見がしっかり持てる」「考え合いで思考が深まる」というメリットは、ペーパーテストで評価しにくい力である。だからといって、メリットが無いとしてしまうのは短慮軽率に過ぎる。そうした力は、豊かで複雑、高度な能力なのである。メリットとメソッドを超えて、子ども達に確かな力を育てる。教育の本質に接近する指導の在り方を考える上で、注目したい研究発表だ。2009/12/20 |
156・授業が響く教室教室には二つの種類がある。一つは、授業が響く教室。もう一つは、授業が響きにくい教室だ。響くとは、教師の考えや子どもの考えが伝わり合うという意味である。授業が響く教室とは、考えや意見が集団の中で使われ合い、創り合われていく様な教室だ。個々が集団に参加する活動によって、参加の意欲を高めていく。集団と共に高め合った考えや、思いが個に返ってゆく。 近年、一人一人の学力を保証する授業の重要性が叫ばれている。個別指導や個を鍛える指導。これこそが、個の学力を伸ばす方法だという声も根強い。だが、好むか好まざるかを問わず、子ども達は学校で集団生活を送っているのだ。子どもの周囲に拡がる人間環境と学力や学ぶ意欲との相関は、子どもにとって無視ができない学習条件なのではないか。学力形成と学級経営、集団づくりは密接に関わっている。豊かな人間環境を経験していない子ども達が、どうやって社会に参加していける様になるのか。この点も心配だ。 「失敗しても、アドバイスをしてくれる仲間がいるので安心して発言できる」「自分の意見が言えなくても、同じことを考えていた友だちが発言して、褒められると自分も嬉しい。自信が付く」「一人で解決できないことが、解決できた」「自信がなくても、少ない人数の前だと発言できる」(中学生)「1+1は2だけれど、人間は計算以上だと思う。二人だと、一人より何倍も楽しくなる」(小学生)。 子どもは他者との関わりを避けて生きていくことができない。学校という場で、先生や仲間と関わりながら、関わり方を学ぶ。関わりを通して学んだ知識も身に付けていく。学力形成と人間形成は別個のものではない。授業が響く教室づくりが、子どもと教育双方にとって大きな意味を持っている。授業が響く教室、社会性の豊かな教室。そんな教室を経験せずに、どの様な学力、人間が育つのか、問うてみる必要がありそうだ。(2009/12/7) |
155,言語表現と中学校の校内研修今年に入ってから、中学校での校内研修に伺う機会が随分と増えた。研修のテーマは殆どが、「協働的な学習」や「コミュニケーション能力の育成」などである。 社会的な相互応答関係を通して学ばせる指導が、注目を集めている様だ。 新しい指導要領の特徴として、「記述の内容が増え、ゆとりからの転換を図った」という事ばかりが マスコミによって喧伝されている。「言語表現の重視」「習得-活用-探究という学習形態(過程)の重視」も今回の指導要領の特徴を表していると言われるが、実際の授業の中ではどの様に取り組めば良いのであろうか。 更に、「学習における社会的形態の拡張」も、今回の指導要領の大きな特徴である。指導要領に加えられた記述の中には、「伝え合う」「意見交換し」「協同して問題解決」「互いに」「グループ活動など」という様に、個の学びから仲間と学び合う活動を通した指導をする記述が盛り込まれる様になった。これまでの指導要領では、特定の教科以外では、「他者と共に学ぶ」という学習の社会的形態まで踏み込んだ記述はあまり見られなかったが、この変化は何を意味するのであろうか。 言語表現というが、単純に考えを述べて自分の考えを確かめるという表現主義に止まっていたのでは、形式的な表現に止まる学習になってしまう。他者とコミュニケーションを通して伝え合い、水平方向で伝え合うだけではなく、協働というコラボレーションによって、意見や考えを創り合う学習を通して学ぶことが、子どもの確かな思考能力を伸ばすのである。させる表現からする表現へ、する表現から創り合う思考へと進んでこそ、新しい指導要領が目指す「社会に生きる力としての学力」を育てることができるのではないか。 表現-コミュニケーション-コラボレーションは下の図の様に、各教科共通の教育土壌として捉える必要があるだろう。子どもが生きていく社会は他者との出会いに満ち、それを避けて生きていくことは不可能に近い。社会とは協働で成り立って存在するものであり、そこに参加できる力としての学力を育てることが求められているのである。中学校の研究テーマとして、「表現し、伝え合い、考えを創り合う授業づくり」は、指導要領の変化の方向から見ても時宜を得たものなのではないか。 授業の中で、仲間と考え合った意見を述べる子どもの力強い表情。その表情から、未来に向かって自分自身を希望の核としていく意志の芽生えを感じることがある。これこそ、生きる力としての学力が育つ瞬間なのではないだろうか。 ![]() 2009-11-18 |
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154.変化の切っ先から教育の本質を読み解く 今、授業づくりはどこに向かおうとしているのだろうか。そもそも、授業づくりはどの様に変化をしてきたのだろう。新しい指導要領への移行に伴う授業改善が各学校において取り組まれている。新たに増えた内容や記述に基づいた授業づくりも、多く目にする様になった。だが、記述の変化を局所的に追ったとしても、授業づくりの基盤となる考え方を掴まないかぎり、改善の実感が伴う授業改善はできないのではないか。 教育界は「新しい」という言葉の響きに弱い。指導要領の改訂もそうだが、「新しい」という部分だけに注意が集中しすぎる様にも思う。だが、新しさや先進性が教育的な価値を代表している訳ではない。目新しさよりも、教育の本質的な価値への接近を変化の中に見いだしていく意識を持つことが必要だ。変化の切っ先だけを見ていたのでは、変化の本質は見えて来ないであろう。 『豊かな学びをひらく授業の構想/寺尾愼一 著 梓書院』は、教育問題の変化の過程を総合的にあぶりだした上で、これからの授業改善のあり方を示している。教育界にどのような変化が起きているかということに加えて、なぜそのような変化が起きているのかを読み解き、解説しているのが本書だ。学力低下問題や教育政策の変化、授業実践や学校づくりまで、現実的かつ具体的な視点から授業づくりの未来を見せてくれる内容になっている。 神聖ローマ帝国時代に興隆を見せたドイツ流剣術の極意は、「先(vor)」と「後(nach)」という二つの言葉に象徴されるという。先とは、相手の行動を先に読むことであり、後とは相手の動きに応じることを意味する。そして、特に戦況を左右する要因が、先に相手の動きや意図を読むことだという。変化の波に蹂躙されるのではなく、変化を読んで授業をつくる。未来志向の授業改善を具体化する上で、自分の位置を確かめ、行く先の見通しに展望を与えてくれる一冊である。 梶浦 真 |
| 153.「教室で語り、教室を語り、子どもを語る-明日の教室(第四巻)」 を読んで 教室という場は、子どもと教師が共に育つ場所だ。いや、子どもが育ち、教師は教育の専門家として熟達する場だと表現をした方が的確かもしれない。子どもは教わる側であり、子どものみが変化を要求される存在だという教育観は危険だ。教師も子どもとの対話や協働を通して、変化をしてゆくのである。子どもにどの様な姿勢で接し、いかなる言葉を交換するのか。 「明日の教室-第四巻-子どもに接する・語る(明日の教室研究会編集/ぎょうせい刊)」では、子どもとの関係を創る視点が様々な状況から考察されている。 「わからない」という言葉と、「わかっていない」という言葉は、含まれるニュアンスが異なっている。「わからない」という言葉は理解の不足を意味し、「わかっていない」という言葉は、理解意欲の不足を意味している。理解力よりも理解欲が、教師の力の伸びを左右するのだ。子どもを理解し、自分の実践を理解し、他者の授業を理解する。その理解の態度によって自己の実践感覚を磨いてこそ、指導力を豊かにしていくことが出来るのである。 「明日の教室-第四巻-」は、子どもを理解し、教室を理解する意欲を持つ教師にとって、刺激と共感と発見を促してくれる内容を持っている。子どもに接し、語るノウハウだけではなく、教室で起きている現象を「わかりなおしたくなる」一冊でもある。 一日という時間の物理的な長さは、どの学級にも同じように与えられている。とりとめのない一日としてしまうか、かけがえのない一日にできるかは、教師が子どもと学びを繋いで行けるか否かにかかっている。「明日の教室」は、子どもと教師にとって、かけがえのない時間を創り出すヒントに溢れている。明日、教室で子ども達と何を語るのか。「語」という漢字は言+互であり、一文字に語り合いの相互性を含み持った文字(漢語林)だ。語りの質が高まった教室は、子どもと教師が共に伸び合う「協室」になるのである。(2009・10.25) |
| 152.教室を「協室」にするジグソー学習 東村山市立萩山小学校(山崎 憲 校長)では、学び手の協働を通して学力を育てる「協働学習」の実践的研究を行っている。“ジグソー学習”という小集団の学習によって、算数の実力を伸ばすことがこの研究のねらいだ。低学年から言語的な活用の基礎力を高め、堂々と数を語り、数を使い、数について考え合う力を育てている。他者と語り合い、考え合う活動によって、学び手の質の高い思考を促し、思考や表現を実際に交流できる力を伸ばしている。 高学力で脚光を浴びているフィンランドの教科書も、他者との関わりを前提にした内容構成になっていることが特徴だ。「・・・という問題を、一人で/ペアで/グループで/みんなで考えてみましょう」という記述が、教科書の中にも頻繁に見られる。 日本の新学習指導要領でも、共同学習(総則)身近な人と連絡を取り合う。感想を伝え合う(国語)互いに自分の考えを表現し(算数)伝え合う活動を行い(生活)他者と協同して問題を解決(総合)というように、学習の社会的形態が、個から他者へと拡張しているのである。学び合う、考え合う、語り合うという、社会構成主義的/活動論的な指向が強まっているのだ。当然、学ばせ方が変われば、教材や教え方も変化をすることになる。 これまでの教材や問題内容は、個がその問題を考えることで知識を獲得することを目指して設計されていた。個が学べれば、それでよかったのである。だが、チームや小集団で学ばせるには、グルーピングに適した課題の分割が必要となる。教材内容を、小集団学習に合わせて応用していく教材変形の力が必要になる。更には、子どもを学び合わせる言葉がけの工夫なども、個に応じる指導とは異なった視点を必要とする。 ジグソー学習は大学の授業などでも取り入れられており、小学生からこうした学び合いの形式に慣れていくことも、子どもにとっては学力となる。同校では 10月31日に「第39回全国協同学習研究大会」http://www16.ocn.ne.jp/~mrym/kenkyukai1.htmlが開催され、実践も紹介される。ジグソー学習によって、教室が「学び合う協室」になっていく活動から、小集団での学習指導のヒントが見えるのではないかと期待している。尚、同校の先生方による授業検討協議も、圧巻であり、学ぶところが多い。(2009/9/18) |
| 151.人と人の間に学びがある 我が家の近くには入間川という川が流れている。この河川敷には野球の練習場があり、休日は子ども達の元気な声が聞こえてくる。先日、たまたま、野球を練習している小学生の姿が目にとまった。小学生でありながら、ピッチング・マシーンを使って、バッティング練習をしていたのである。私が子どもの頃は、ピッチング・マシーンなど、プロ専用の機器であった。時代が変わると、練習方法も変わって来るのであろう。 バッティング練習を見ていると、一人の少年がマシーンのボールを必死に打とうとする姿が目にとまった。一球目、二球目、三球目・・・・。全くタイミングが合わないようで、ボールに当てることすらできない様子だ。二十球近くを全て空振りし、がっくりと肩を落としている少年の気持ちが、私にはわかる様な気がした。「やっぱり、自分には難しいんだな」そんな呟きが聞こえてきそうな表情であった。 マシーンは便利な練習機器である。だが、どこまで行ってもマシーンに過ぎない。繰り返せば上手くなるというが、子どもの力と見合わないボールを空振りし続ければ、練習そのものから逃げたくなるのではないか。その少し横では、青年のコーチが、少年に対してゆっくりとバットを振らせて、フォームの改造を行っていた。子どもの顔の位置や、足を運ぶタイミングを修正している様子である。学ぶ子どもの方も、「こうか!こうか?こうか!」と真剣に、コーチに動きを確かめてもらっている。 数多く練習をするならば、機械を用いて練習をすることも合理的ではあろう。しかし、人が人と関わって練習をする効果は、繰り返しの回数とは違うところに価値や魅力がある。コーチと共に、ゆっくり、確かめながらバットを振る少年の姿から、人と共に学ぶことの大切さを教わった気がする。 (2009/9/14) |
| 150.質疑応答の背後にある“協働” 私は講演後の質疑応答が非常に苦手である。殆どの講演では、質疑応答の時間が用意されている。ところが、質疑応答で質問を受けることは殆どない。私の話が、よっぽどわかりにくいか、わかりやすいかのどちらかに偏っているのかもしれない。質疑応答の時間が苦手な理由は、質問が出ない会場のどこに視線を置いて良いか迷うからである。特定の先生に視線を送ってしまうと、その先生も目のやり場に困る様だ。その困っている様子を感じてしまうことが、自分の心の置き所を迷わせてしまうのだ。 ところが、先日伺った沼津第四中学校(芝厚校長)では、十五個以上の質問を受けることができた。講演後に先生方がグループミーティングを行い、質問事項を創る。先生方は講演の内容と、実際の教育課題を比較検討しながら、質問事項を練り上げて行くのである。「学力と意欲の育ちは、日本だけの問題なのか」「伝え合い、考え合う学習では、ルールを教えた方が良いのか」「グルーピングは偶然に任せるのか、教師が意図的に組織するのか」「教材を子ども側の問題として構成することは難しいのではないか」・・・・・。次々と質問が繰り出されてくる。先生方の協議の様子を拝見していると、実に熱っぽく意見の交換をしている姿が印象的であった。先生方の『協議力の高さ』はこうした研究活動で創られ、授業や会議にも活かされていると推察された。 更に、研究主任の先生が、子どもや教師の学習-指導に関わる意識をアンケートで汲み上げ、分析し、まとめて発表していく姿も見事であった。これも、研究主任に対する先生方の協力と、研究主任の主体的な研究意欲が結びついてのことであろう。 質疑応答という場面にも、その学校の組織性は反映される。今回は受けて、返すという単純なやりとりになってしまったが、次回は対話を通して共に学ばせて頂きたいと考えている。 人の集まりでは、集まることを活かして、関わり、新しい知的価値を創造していくことが大切である。この、沼津四中方式の質疑応答は、多くの学校(組織)でも取り組む価値があるのではないか。 (2009/8/27) |
| 149.グランドデザインを駆る この夏も多くの学校に伺った。学校に伺った折りに必ず見せて頂く資料が、学校のグランドデザインである。学校規模に関係なく、現在では殆どの学校がグランドデザインを作成している。だが、問題はグランドデザイン=全体構想を作成することによって、教育的な成果が生まれているかどうかであろう。 「毎年ほどんど見直さない」「管理職を中心にした数人で決める」というのでは、なかなかグランドデザインが学校自身のものになって行かないのではないか。グランドデザインは掲げることも大事であろうが、その作成過程も重要である。作成過程を省略してしまうと、職員には自分と関係が感じられない、絵に書いたデザインになってしまう恐れがある。カリキュラムもグランドデザインも、書き表すだけでなく、実行系の力として機能させることが重要だ。 これらの情報が実効的な力を発揮するには、カリキュラムやデザインを実行する主体の存在を必要とする。つまり、カリキュラムやグランドデザインが、教師にとって関わりを実感できる形で作成することが求められるのである。教師にとって主体化しないグランドデザインは教育活動に向かって具体化することはない。グランドデザインは活動化することによって、デザインという形式から教育力に変化していくのであろう。(2009/8/17) |
| 148.大越基氏の指導に見る「協働」 7月23日朝、山口県・早鞆高校野球部を指導している大越基副部長(元ダイエー投手)の、指導方法がNHK総合で紹介されていた。その指導法の特徴は、チームワークづくりの徹底にあるという。大越氏は自らの高校野球生活を通して最も勉強になったことは、助け合い、支え合うチームワークの大切さだったという。今、高校野球の指導者に転身し、高校球児達にチームワークの価値を学ばせたいといと言うのだ。 バッティング練習では、バッターボックスに入る前に、投手とキャッチャーと球審にあいさつをさせる。「一回の打席に入る前に三回のあいさつをする。あいさつは相手とあいさつを交わすタイミング、間合いが重要である。こうして、人と関わりを持つ力を育てていくことがねらいだ」とのこと。選手が互いに声を掛け合い、伝え合って、ミスを招くプレーの見逃しを防いでいく。こうした指導を受けて、選手の意識が徐々に変わっていくことになる。 「自分達に足りない部分がわかってきた。強くなるためにはチームワークや支え合いが大事だ。」こうして、生徒達はチームワークの重要性を実感していく。やがて、選抜高校野球の県大会を迎える。大越氏はレギュラーに入れなかった選手のユニホームをベンチに持ち込み、選手に語りかける。「このベンチに入れなかった仲間達の思いを忘れるな。」実際の試合では、一人の選手のアクシデント(怪我)をカバーし合うプレーが飛び出す。その姿を見て、大越氏は選手達にチームワークの芽が育ちつつあることを実感する。 関わり合いや伝え合う力は、その価値を頭で理解するだけでなく、実感として知ることが大切である。この高校は二回戦で敗退したというが、助け合い、励まし合った体験の充実感は選手の心に生涯残り続けて行くことだろう。 (2009/7/23) |
| 147.教師の【念頭力】が組織に活力を生む 激変する社会が組織の概念を変え始めている。構造的に盤石で、安定した組織では変化に対応できなくなっている。変化に対応する受け身型の組織から脱却することは、組織の新たな課題である。時には堅固に、時には柔軟に、そして自らが変化の核になることも必要だ。組織には創造的かつ動的な方向への脱皮が求められている。柔軟で創造力を有する組織が社会の変化を更に促進しているのだ。 学校という組織も、より柔軟で機敏な活動を求められる時代になった。瞬時のミスがICTによって社会に拡散し、問題を拡大させてしまう。子どもも保護者も情報ツールを持つ時代。学校の信頼は、そうした情報化に耐える組織力を必要とする。都市部では私学も含め、学校間の競争が激化している。信頼と魅力の双方が、組織としての学校に求められるようになっているのだ。 学校の組織力は、ある部分に端的に現れる。ある部分とは、子どもと教師の接点だ。子どもと教師の関わりは、子どもを通して周囲に拡散していく。子どもと教師の接点が、組織としての信頼性を高めも低めもするのである。 組織力の高い学校では、教師が“念頭力”を持っていると感じさせられることがある。念頭とは、今+心+頭だ。現在進行形の思いを活性化させたまま、意識の中に止めおくことを意味する。個々の教師が、学習者の実態を理解する姿勢や、学校としての教育ポリシーを共有する。個々の教師が理念や信頼で繋がってこそ、活力のある組織活動が可能となる。個々の“念頭力”が機能してこそ、学校という船は激変の教育海を航行して行けるのである。 2009/7/8 |
| 146.子どもの学びをあぶり出す教師の語り合い 授業の中で一人一人の子どもはどの様に学んでいるのだろうか。同じ教室にあって同じ問題と向きあっていても、それぞれの子どもの頭の中では違う物語が生まれている。子ども一人一人の個別的な知識が、一般化されていく過程を通して、知は練り上がって行くのだ。長さにこだわる子、面積から考える子、公式から考え始める子、友だちの考えに揺さぶられる子、先生のヒントから何かを読みとろうとする子。一斉授業であっても、子ども達の考えは実に個性的である。 だが、ここからもう一歩踏み込み、一人の子どもの発言や表情に着目して、その思考と心の動きを読み解いて行く。それも、同時に数人の教師がそれぞれにメモを取りながら発話を記録してゆくのである。教師それぞれが、一人の子どもに集中して学びを読みとり、次は、教師がチームになって、その学びを読解し合って行く。教師達の話し合いを通して、子どもの思考の変遷があぶり出されていく。教師の与えたヒントや言葉の受け取り方、これまでの考え方から新しい考えに変わって行く仲間を見て戸惑う様子、その子なりの思考世界が徐々に見えてくる。 模造紙に記された子どもの発言記録に対し、次々の教師の見取った子どもの思考世界が書き込まれていく。時には赤の油性ペンで、時には緑や青の油性ペンを使って、子どもの思考世界が豊かに再現されていくのである。それは、宝探しの地図に隠された暗号を読み解いていくかの様な活動だ。子どもの学び世界を読解し、指導に役立つ情報として翻訳し合って行くのだ。 ![]() ・一人の子どもは周囲の仲間や教師と関係し合いながら学んでいる ・教師の教材選択や、発問のちょっとした言葉が子どもの思考世界を大きく左右する ・子どもは、基本的に自分の頭で考えたがっている ・他人の間違いを感じて、自分の考えを修正する力を持つ子もいる ・一見無意味な発言の中にも子どもなりの正解が潜んでいる ・・・・次々と、子どもの学ぶ姿から“学びの準法則”が見えてくるのである。 これは、下田市立下田小学校の授業研究の一場面だ。論理から子どもを見るだけではなく、社会構成的に子どもの学びの特徴を練り上げていく感じである。子どもが創った学びを、教師がチーム協議を通して再構成しながら吟味し合う。個々の教師が見取った学びが協議を通して教師自身に還る。子どもも教師も、考えの交流という社会的活動を通して、最もよく学ぶことができるのであろう。 2009/6/22 |
| 145.「現場を生き抜く教師のチカラ-野中信行氏のことば」 学校を“教育現場”という言葉で表現することがある。現場という言葉には、他の教育職とは異なり、子どもと直に対峙しているのだという意味が含まれているのであろう。子どもとの距離や直接性が現場という言葉に含まれているのである。「踊る大捜査線」という刑事もののテレビ映画で、織田裕二がこんな台詞を語っていた。「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!。どうして現場に血が流れるんだ。」 これも、事件と刑事の距離や直接性を表現した言葉である。 だが、教育現場という言葉は、どうしても私の言語的感性とは折り合わない。どこか違和感があり、しっくりこないのだ。そこで、自分の中では教育現場を“教育本場”と読み替えることにした。子どもと教師が学ぶ、学びづくり人づくりの本場=学校と捉えたのである。まさに、その「本場」で、人と学びは創られていくのである。 さて、今、私の手許に「“現場”を生き抜くということ」というサブタイトルが付いた本がある。『野中信行のブログ教師塾(学事出版)』がそれだ。教師と子どもが生き合う“本場(教室)”で生じる問題や、その問題の根底に潜む課題を深く簡潔に切ってゆく内容である。学校では、様々な現象や事態が次々と生じてくる。その時、どうやって問題を解決をしていくのか。問題の解決だけではなく、なぜそこのことが問題になっているのかを考える。更には、教師として生きねばならない“私自身”から目を逸らさず、具体と論を結び付けて行く筆致に引き込まれていく。 この本を一冊読むと、教師ではない読者でも教師人生を歩んで来たかの様な錯覚に陥る。これから教師になる学生や初任者をはじめ、保護者や行政関係者にも、興味深く読める内容だ。授業づくり、学力問題から、職員旅行や子どものエピソードまで幅広く身近なテーマを素材にして、修辞的な内対話で読者の思考を快く刺激してくれる。教師を含む教師の周辺で起きている現象をどの様にみていくのか。「野中信行のブログ教師塾」はその見方と、見るための姿勢を自然に考えさせてくれるのである。 捜査の現場は血が流れるのかもしれないが、教育の現場は血が通い、知が育つ本場である。混沌とした現場(本場)を生き抜かねばならない教師に対して、血の通った助言が得られる一冊である。 梶浦 真 ※野中先生ありがとうございました |
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144.本質という“質”を問う教育
~授業改善研究会に学ぶ~ かかわり方が変わると、わかり方が変わる。学ぶという行為は、問題や対象と関わる行為と密接に関わっている。習得、活用、探究は問題との関わりの程度と質に関係している。授業研究でひとつの授業に深く関わると、その授業の背後に潜んでいた関係が見えてくる。ある子どもに深く関わると、その子どもの持つ様々な関係が見てくる。家族との関係、友達との関係、そして、知や言葉との関係。
かかわりを決定的に左右する要素は三つある。量と質、そして相互性という三つの要素だ。関わる頻度は量的な要素。関わりへの丁寧さや集中力は質的要素。そして相互性は関わる対象と相互に影響を受け合う要素である。かかわりが変わると、わかり方が変わるということは、子どもも大人も同じである。わかろうとすると、かかわりが深くなり、かかわりが深くなると、かかわりの過程と対象がより本質的に見えてくるのである。 『子どもらしさに学ぶ 17(授業改善研究会編著)』が今年も私の手許に届いた。授業改善研究会は、静岡県を足場に、自主的な授業改善活動を行っている実践家の集まりである。この冊子は、実践家が自分の授業と子どもの関係を批判的に分析し、実践力を高め合って行く活動を記述化したものだ。それぞれの教師が、自分の授業と子どもの変化を質的に捉えている点が見事である。子どもの人間関係、子どもと学習との関係、そして子どもと子どもの未来との関係が丁寧に分析されている。 ・なぜ、その子どもはそこで考えることを止めたのか ・どうして、この授業で子どもが迷ったのか ・どうやって、教師自身が子どもや指導内容の問題点に気が付いたのか ・どの様に子どもと接すると、子どもと共通の視点を持てるのか 教育活動の本質が、“学びと子ども”という二つの視点から捉えられている。 学習指導の具体と授業改善を目指す理念を、互いの教師人生に織り込み合って行かんとする気概が伝わってくる冊子である。実践を読み解く量と質と相互性が息づき、子どもと授業、そして実践者自身に対する姿勢も伝わってくる。関係を断ち切られ、孤立した精神は、最早今日的な精神の有り様ではない。学びや教育の質を問い合う教師の相互性が、子どもと教師を共に創り上げて行くのである。本質という質を問うことの意味を、「子どもらしさに学ぶ」は教えているのであろう。 2009/5/18
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| 143.協働的な学びで学力の質を高める教師 ~ 岩城一磨氏の挑戦~ 「手間のかかる協働学習が、なぜ、必要なのか。もっと優先すべき学習方法や、効率が良い学習方法があるのではないか。」 伺った学校で、 たびたび聞かれる質問である。 ①協働学習が優れているという訳ではなく、優れた協働学習は成果の質が高い。 ②学習内容や学習資料(教科書)は、個人の学力向上を標準的な対象としている。従って、協働学習は指導法のスタンダードになりにくい傾向がある。 ③②に関連して、一斉指導で個にも応じるという難しい指導が無批判に受け入れられ、標 準的な教え方として定着している。 ④社会的な選抜を行う方法が、個人内の能力を閉鎖的に測定する方法に偏りがちである。 ⑤学習や発達が、個による習得的な学習を基盤にしているものだと、(未だに)捉えられ ている。 など、協働的な学習が定着しにくい理由は様々だ。協調的に学んだり、チーム活動を通して学ぶ経験は、教える大人の側もあまり経験がなかったのであろう。だが、「伝え合う力、考え合う力を伸ばす」「コミュニケーション」「言語表現を通した学習」など、学びは社会的な方向に向かって広がっているのである。授業を社会的に開くことが、これからの授業づくりの重要なキーワードとなっていくであろう。だが、授業として協働の指導を具体化していくためには、実際の授業として活動化して行く必要がある。 岩城一磨氏は、協働を基盤に据えた授業づくりに着目し、後進を指導しながら自らも協働的な学びを実践してきた教師である。協働の指導理論を実際の授業づくりに生かしながら、自らの指導法として採用し、編み直す活動を行っている。そのエッセンスが「指導教諭指導資料集/協働の授業づくり32の視点」として、冊子にまとめられた。 「そもそも協働の教育的価値はどこにあるのか」「各教科における協働の在り方」「協働学習における発表や発問の技法」、あるいは、自評の仕方や授業ビデオや写真の撮影方法まで、実践を前提にして解説されている。協働という指導方法を自らが後進に指導する活動によって、協働の授業づくりに必要なエッセンスをあぶり出した内容となっている冊子である。この一冊から、協働の授業づくりを通して得た知見を多くの先生方に語って行きたいという、強い思いを見て取ることができる。 語るという行為は、伝えるという目的によって説得の力を得る。「語」という漢字の旁(つくり)は、互という意味を持つ。つまり、言葉を相互に語り合う意味が、「語」に含まれているのだ。なぜ、人は語り合うのか。それは、伝えたい思いや考えを交換しあうことによって、互いの考えを創り合って行くことを期待するからではないか。自分自身の考えが、この冊子によってより深められていく。そんな実感を得られた一冊であった。2009/5/1 |
| 142.「子どもを認める?」「子どもが認める?」 子どもは認めてあげれば伸びるという。具体的な長所を挙げて認める、行動の結果だけでなく取り組みの態度を認める。そして、役割や行動を越えて、その子そのものの存在を認めることが子どもを伸ばすことに繋がると言われてきた。 しかし、子どもが伸びるのは、認められた時だけであろうか。子どもを認めるという時、大人は暗黙の内に自らを認める側に置く。その結果、子どもは常に認められる側に止まり、大人は認める側からのみ指導や教育を捉えてしまう。子どもが伸びるのは、大人から認められた場合だけではない。「子ども自身が、誰かを認めた時」にも、子どもが伸びるということを忘れてはいないだろうか。 ○○君の意見は凄い、先生のしたことが凄い、みんなで協力できたことが凄い。この様に、子どもは相手や他者を認めた時にも伸びる、伸びようとするのである。他人の価値を認める、意識の中に見止め(ミトメ)た時、子どもは他者を認めた自己をも認めていくのだ。 認め合う学びによって育ち、育ちを認め合うことによって共に育つ。学校という他者と学び合う場でこそ、認め合いによって育ちの質が高まり、伸びの量も大きくすることができる。最初は他人であっても、他認によって仲間となり、認め合いによって自認の質を高めていく。子どもの認めを促す指導は、子どもを大人に変えていくのである。他を認める私は感動に正直な私であり、自己中心から脱皮して成長をする私なのであろう。 2009/4/15 |
141.便宜的カリキュラム俯瞰相関図(試作版) 個人メモ(図の補遺) ・伝統教科と総合・生活は相互に他方の学びを基盤とし合うことでカリキュラムバランスをより安定させる。 ・伝統教科のみを基盤に据えてしまうと、教科的な(知識とその操作の)習得-活用のみが優先される危険がある。 ・習得-活用と探究を、段階的系統性のみで結びつけてしまう傾向は無いか。 習得-活用は学習転移モデルを背景としているが、探究は批判的学習モデルや経験的学習モデルも背景にしている。従って、習得-活用-探究を階層的に捉えることには難があるのではないか。但し、探究を学習行為のメタ理論として捉えるならば、探究の中に習得や活用を位置づけることが可能である。 ・習得と活用は相互に相関しているのであり、習得から活用への一方通行ではない。習得-活用-探究は学びに必要な諸相として、環学習的に繋がっている。その環を断ち切り、特定の場面を切り出したり、絶対的優先関係を決定することはナンセンスであろう。 ・「実用」の領域は実社会(学校外での現実的問題)の問題解決を想定しており、学校カリキュラムの外に(便宜上)位置している。 ・単純計算に過適応してしまうと、応用問題を解く場合にも数だけを取りだして計算してしまう。転移の順行性干渉とも言える。定型的熟達化を果たしても、適応的熟達に問題が生じる傾向あり。※PISAの7×3問題など。誤答の背後に潜む学習方略も視野に入れたい。 ・個(独学)-共(共学)-協(協学)という、一人から学び合いに向かう、学習活動の社会性の拡張も視野に入れたい。 ・更に、学習者の立場に立てば、伝統教科か総合かという様な区別はあまり意味を持たない。もし、子どもが授業を区別するとすれば、乗れる(参加できる)授業かそうではないかということだけである。・・・従って、この図表そのものが、便宜的な大人側の都合に立脚していると言えるだろう。(2009/4/8) |
| 140.問う問いと問われる問い 問いには、様々な種類がある。計算問題もあれば、記述を要求する問題、意見や考えを要求する問題など、問いは実に多様である。しかし、大きく分けるならば、問いは二つの領域に分けることができる。一つは与えられた問いであり、もう一つは自らが気づき、創造した問いである。 子ども達が学校において要求される問いの多くは、与えられた問いである。子どもは、自発的に問う力を持っているが、教師が意図的に問いを持たせることによって学習が進んでいくのである。問いを見つけ、深めつつ考えて行ける様になるためには大人の助けが必要なのであろう。 ところで、我々大人は生活の中でどの様に問いを見つけたり、創ったりしているのだろうか。大人になると、問いを誰かが与えてくれるとは限らない。自分で気づき、自分で問いを深めて行かねばならない場合が多くなるのだ。企業では“気づく人は伸びる”ということがしばしば言われている。気づく人とは、即ち、自発的に問いを構成できる人のことを指すのであろう。問いさえ深まれば、解決への手だてや意欲は自ずから高まる。問いを焦点化する力こそ、考え抜く力の源泉なのだ。 知識の基礎基本を問われる問い、活用力を問われる問い、PISA型の問いから現実的な問いへと、問いの種類によって求められる力は変化をしていく。そして、問われる問いに答える力から、自ら問いを発見する力を高めてこそ、気づく人になって行けるのである。問いに気づく力を持つということは、“伸びしろの長い学力”を身に付けるということだ。それは、大人になっても知的に伸び続ける学力だと言えるだろう。2009/3/21 |
| 139.“キー・コンピテンシー”の見える授業研究 ある中学校の校内研修は、職員間の垣根が非常に低い点が特徴である。教科の異なる同僚の授業を観て、職員協働で授業分析を行っていく。「題材を選択した理由がわからない」「子どもの考える時間を保証していた」「手厚い支援を必要とする生徒への指導は十分だったか」「この教材には、表面上の問題と、その背後に潜むもう一つの問題がある気がする」「私の教科ではあれほど勉強ができる生徒でも、他の教科では苦戦することを知って、生徒の新しい面が垣間見えた」・・・・。延々と、先生方の授業にかかわる協議が続いていく。自分の教科ではない教科の授業でも、積極的な意見交換を通して、先生方が学び合っていく。 教師が生徒から学び、同僚から学び、社会から学び、自分自身や置かれた状況からも学べる、学びの専門家であること。「教師が教えることを学び合うコミュニティを形成していること」が、学校における授業研究の生命線であると、ハーモンドやスノーデンは述べている。この中学校の授業は総じて質が高く、①生徒の授業参加率が高いこと②授業中の生徒の思考が継続していること③わからない問題に対して、あきらめない生徒が多いこと、が印象に残った。そして、何よりも感じたことは、生徒一人一人が先生や仲間から認められているという安心感を持っていることだ。 更に、面白いことがある。それは、こうした環学的/横断的な授業研究をすることによって、先生方が自分の教科以外の教科を好きになり始めていることである。「私は社会科なのですが最近○○科の勉強の良さが解ってきました」「○○先生の授業を見ていると、もう一度○○科の問題を解いてみたくなるのです。」 PISAの掲げたキー・コンピテンシーの中に、「多様な社会グループにおける人間関係の形成能力 (自己と他者との相互関係)」という柱がある。この中学校の教師陣は、このコンピテンシー(能力)を授業研究という実際の活動の中で発揮しているのである。生徒の先を生きる教師が、望ましい姿を体現しながら教育活動を行っている。富士山を仰ぎ見る山間の中学校に、これからの中学校教育の在り方を示す一つのモデルを見た気がする。 2009/3/11 |
| 138.教えないという教え方 ~へき地校での協働学習/学び合い学習~ 机を向かい合わせにして、5~6人の子どもが座っている。教師はやや離れた場所に机を置き、子ども達の様子を眺めている。子ども達は、互いに課題やワークを見合いながら、学習が進む。一見した感じでは、子ども達が学び合い、教え合いながら自習をしている様に見える。授業の進み具合によっては、教師の出番が非常に少ない。へき地の少人数で、この様な協働学習や学び合い、考え合い学習をすると決まって出てくる意見が以下の様な声だ。 「これは授業とは言えない。自習だ」 「教師は子どもを見守るだけで、指導をしていないのではないか」 「教えるべきことは教えないとだめだ」 「こんな手抜き指導では、子どもの学力が心配だ(保護者の声)」 「都会に出てもこんな学習で大丈夫なのか(地域の声)」 どうやら、“授業とは教師主導で講義をすることだ”と考えている人が未だに多いらしい。自分が受けてきた授業スタイル、勉強スタイルを追認再生産するのである。教師の手出し、口出しが少ない授業で学びが進むと認知的不協和を起こしてしまうのかもしれない。 ○教師の指導の評価は、手出しや口出しなど行動に見える部分を中心に見る ○子どもがじっくり考える時間よりも、説明を重視する ○子ども達だけで学び合うといい加減で、効率の悪い学習になると信じている という様な古い授業観に立つと、協働的な学習や学び合いの学習としての良さは見えにくくなってしまう。だが、子どもの考え合いや話し合いを見守る教師は、本当に何も指導をしていないのだろうか。 指導には顕在的な動的指導と潜在的な静的指導がある。顕在的な指導は「理路整然とわかりやすく教える。正しい知識を教える。」という、従来からの古典的な指導モデルである。一方で、子どもが考える時間を保証し、教え合ったり、問い合ったりする様子を見守り促す指導が、潜在的な指導のモデルである。 十分に教材研究を行い、子どもの性格や学力の変化を読みとって、最小限の指示で最大限の学びの効果を得ようとするのである。この様に子どもの学びを見守りながら、子ども同士が考える時間を生かした指導は、特に、少人数のへき地校の指導に向いていると言える。 ・手をかけずぎず、子どもの能動的な学びの体験を重視する=少人数故の教え過ぎを防止。 ・子どもの数が少ないため、表情や言葉の行き来を観察しやすい=学びの場と子ども個々の状況を適切につかんだ指導がしやすい。 ・考え合い、聞き合いによって、他者の話を聞く耳が育つ=上級学校へ進んでも、聞く耳が育っていると学びのスタイルが変わっても対応しやすい。 ・都会に出ても、他者と考え合ったり、対話をすることができる=試験に合格しても世間に出られないのでは困る。 こうした点を考えてみても、「教えない教え方=考え合わせ、語り合わせる学び」は、子どもの少ない過疎地域の指導法に向いていると言えるだろう。 先日、WBCの解説をしていた清原和博氏が、面白い話をしていた。「バットは振って攻撃をするだけではない。振らない攻撃というのもある。球のコースを選び、バットを振らずにフォアボールを狙う。今の押し出しは、振らないバッティングという攻撃である」というのだ。 子どもの性格や学力の状況を把握し、教材研究によって教材の特質を把握して、子ども達の考え合い語り合いを見守る。策を持って待ち、子ども達の考えを促すために、的確なヒントを出す時合いを待つ。積極的な待ちによる潜在的な指導によって、子ども達が主体的に協働できる学びの力を育てたい。地域の教育資源に限りがある過疎地でこそ、都会とは異なる方法で生きる力を育てる必要があるのではないだろうか。2009/3/1 |
| 137.「つくる」「つかう」「つくりなおす」 子どもは知を受動的に習得するだけではない。子どもは、自分にとって必要な知を創り出す力を持っている。生活科で、幼稚園児を小学校に招いての、ゲーム大会を企画した。ここで課題となったのは、役割の分担である。話し合いだけでは、なかなか意見がまとまらない。話し合いの内容が整理できないのだ。やがて、「必要な係りを書き出してから考えよう」という意見が出る。こうして必要な知をつくりだしていく。 子どもは知を創り出すだけではない。自分が創り出した知をつかうことができる。自分たちがつくった役割表を中心にして、役割を決める話し合いが進む。創った知を使いながら、課題に臨んでいく力を持っているのである。 子どもは知をつかうだけではない。自分が創り出した知を、状況に応じてつくりかえる力を持っている。場所は変わって、国語の授業である。班活動での話し合いによる学習が進む。しかし、意見はなかなかまとまらない。「この間の役割表みたいに、出てきた意見を、意見ごとに分けてみたらどうか」という意見が出る。意見を整理をするために、役割分担の学習で使った分類方法が役立った様である。子ども達は、必要性に応じて知をつくりなおす力を持っているのである。 「つくる」「つかう」「つくりなおす」という能動的・創造的な知性を伸ばす。確かな思考力や柔軟な発想の意欲を育てるためには、子どもの知の働きに着目する必要があるだろう。知を「つくる」「つかう」「つくりなおす」という三つの過程を経たとき、子どもの中の知識と知性が考える力として結晶して行くのである。2009/2/19 |
| 136.出場と塩梅と“材質” 前回は、伝達的な“授業”と、学習者の活動を求め、待ち、窺う“需業”という、二つの“ジュギョウのバランス”について書いた。ところが、「教えるべきことは教えるべきである」「まず、一人一人に考えを持たせないと学習が成り立たない」「指導内容が増えるということは教える授業を重視するということである」 という意見も多く聞く。とにかく、教えることなくして学習なしという考え方だ。押し得る(オシエル)=押しつけないと学力は得られないという教育観は根強いものがある。 だが、「教えるべきことと、そうではないことについて整理されていない」「ヒントによって知を引き出すことが不可能で、何も考えられない学習者がそんなに多いのか」「教える内容を学ばせるためには、説明や伝達以外に方法がないのか。説明や伝達で理解が深まるのか」という疑問も残る。 嶋野道弘氏は、指導は出場(タイミング)と塩梅(程度)が重要だと指摘しているが、 これは、伝達的に教えれば良いという安易な指導観への批判だと言える。更に、この指導の出場(タイミング)と塩梅(程度)に加えて、材質(質)という視点を挙げておきたい。どの様な教材や例示を使うのか、学習者の発言や疑問をどう活用するのか、個人が対象か集団が対象か。この様な指導の具体に関わる部分が、指導の材料(質)にあたる部分だ。料理で言えば、素材の鮮度や調理方法の適正を見抜く目にあたる。指導の強弱(塩梅)、タイミング(出場)に加えて、質(材質)という次元を加味することによって、指導は有効性を発揮するのである。 量は質と結びついて実効性を高め、質は量と結びつくことで具体化する。量というわかりやすい部分からだけ教育や評価を捉えるのではなく、“どの様な”という質的語りを必要とする視点から指導を捉える。その質的な語りを必要とする領域に、子どもの姿や教師の姿、学びと指導の具体-主体-実体が存在するのではないだろうか。 2009/2/10 |
| 135.子どもの学びを支える二つの“ジュギョウ” 授業という漢字は、「授ける」+「行為」という意味であり、伝達的な意味合いが強い。知識を授ける、考え方を授けるという様に、教師が持っているものを受け渡すというニュアンスが「授業」という言葉には潜んでいる。行動主義的な授業が中心だった時代には、説明が上手い、鍛え上手だということが教師に最も必要な行為=役割だったのであろう。 しかし、認知主義的な授業設計理論が導入されると、子どもの考えを引き出すのが上手い、ヒントを与えて支援することが上手いという様に、ややソフトな支援方法?が教師の役割として重視される様になった。知識や技能だけでなく、関心や判断力など、多様な育ての要素が授業に持ち込まれて来たのである。 更に、伝え合いや学び合い、探究型、活動型の学習では、学びの成立を促す複雑な役割が教師に求められることになる。伝え合いが起きやすくなる課題の選択や、探究を促す状況を準備する力、難しくても子どもに取り組む価値を見いださせる技術など、多様な技が要求されるのだ。 需要の需という文字は、「待ち、求める」「様子を窺う」という意味を持った漢字である。子どもの様子を窺いながら、子どもの思考や表現を待つ。授業という文字よりも、「需業」という文字の方がこの場合の教師の役割を適切に表現しているのかもしれない。実際には、授ける授業と、待ち、窺う需業の双方を適切に用いることが指導の要なのであろう。子ども達と学習を通して綱引きをし合いながら、集中した学びの世界に招き込んで行く。「授業」と「需業」を駆使できる力が、学ばせ方の上手い教師だと言えるであろう。(2009/2/1) ![]() |
| 134.挑戦がある授業 Change! Yes we can ! オバマ新大統領を象徴する言葉がこのフレーズだ。何かを変えたい、みんなで取り組めば必ずできる、というポジティブなメッセージがこのフレーズに潜んでいるのだろう。その期待感が、オバマ氏を大統領に押し上げたのであろう。だが、この言葉には何か、トリックが潜んでいる気がする。 何を、いつ、どの様に変えるのか。何に、誰が、どう取り組むのか、具体的な変革と実行の有り様は見えてこない。実行の量と質、そして潮時(タイミング)が不明確なChangeは本当に実現するのであろうか。 言葉遊びに過ぎないが、change/チェンジに(all)を加えると、ch(all)enge/チャレンジとなる。Changeの語源はラテン語で“交換する(cambio=to bater)”だという。成果の質が高い教育効果を生み出す挑戦の継続こそ、真の教育価値を実現するものなのであろう。 授業にも、挑戦(チャレンジ)がある授業とそうではない授業がある。子どもの挑戦心や好奇心も大切だが、教師の側に挑戦がある授業は子どもの学ぶ意欲を引き出しやすいと感じる。挑戦のある授業とは、教師にとっても子どもにとってもねらいと願いが顕らかになる授業だ。変化を受けて対応するだけでなく、挑戦を教育行為の柱にして行きたいものだ。 (2009/1/21) |
| 133.“新しさ”を充実に換える ~授業の未来像と学びの本質に迫るヒント~ 『木村吉彦 編著 小学校新学習指導要領の展開 明治図書』 “新”という漢字は、期待感を感じさせる文字だ。新品、新車、新学期、新年。いずれも、未来の可能性に対する広がりを感じる言葉である。反面、新しさは、同時に一抹の不安感を随伴することが常だ。未来は常に未確定である。故に、安定した高い成果を約束してくれるとは限らないのである。 現在の教育界でも、もっとも多用されている漢字が“新”である。新しい教育、新しい指導方法、そして、新学習指導要領等々。とりわけ、新しい指導要領への対応は、教師にとって最大の関心事だと言える。新指導要領というと、その変更点だけに関心が集まる傾向がある。どこが新しくなったかだけに、異常な関心が集まってしまう。指導要領は変化をした部分よりも、変化をしなかった部分が多いのだ。変わらなかった重要な部分を押さえずに、新しい部分だけを学んでも、根無し草の様な頼りない知にしかならない。新しさは、変化を要求する。だが、変化の連続だけでは、確かな教育の文化は構築できないのである。 “新”という文字にいささか食傷気味になっていたところで、興味深い一冊と出会った。 それが、「小学校新学習指導要領の展開-生活科編-(木村吉彦 編著/明治図書)」 である。新しさに対応しながら、生活科が持つ“学びという行為の原点”に軸足を置いて編集されているのが本書だ。しかも、19人の教師が自らの具体的な活動や、指導の経験を基にして、生活科の授業づくりの「これまでとこれから」を解説しているのだ。指導という活動の最適化を目指して、生活科の学びの真髄に触れながら、具体的な学習指導のあり方を示している。新しさだけに惑わされることなく、質の高い実践を子どもと共に生み出していくヒントがコンパクトにまとめられている本だ。 編著者の「TeacherからEducatorへ」という提案は、教師が「知識・技能を教える」という役割から、「能力をedu=引き出し/care=世話をする」役割への変更を薦めるものであろう。教師の役割の変化は、子どもと教師の関係、子どもと教材の関係、子どもと学力の関係を、これまでと異なる構造で創造することを求めるのだ。新指導要領が示す生活科の学びのあり方は勿論、あらゆる教科・領域における授業の未来像と本質を示す。「新らしさに対峙する不安」を充実した未来に変えていく力を持つのが、本書である。 梶浦 真 |
| 132.私論・試論(年末・年始号) 「学習の優先順位に潜む教育観の対立と調和」 -「伝統的教科」と「生活・総合的な学習」、 それぞれが基盤とする学習観の差異から見た教育価値の比較検討- 【要旨】「教科」と「生活・総合的な学習」は一般的に、性質の異なる学習だと言われている。二つのカリキュラム領域は、経験主義と系統主義、あるいは工学的接近と羅生門的接近(Atkin,J.M)、パラディグマティック・モード対ナラティヴ・モード(Brunner,J,S)など、対照的な性質を持つと考えられる傾向が強い。二つの学習が持つ目標の性質と構造、基盤に据えている学習・教授モデルを比較し、その共通性やそれぞれの教育的な価値を考察する。この考察を通して、日本における教科学習と生活・総合的な学習という二つの学習が持つ教育的価値を確認する。 ★続きをご覧になりたい場合はPDFにてこちらでお読み頂けます。 |
| 131.学びの長距離走に子どもを誘う TIMSS2007の学力調査結果がマスコミなどで紹介され、国際順位の高さと裏腹に学ぶ意欲や態度の低さが指摘されている。また、7センチと3センチの辺からなる長方形の外周を求める問題では、21センチという誤答が50%などに上るなど、問いを批判的に読み解く態度に欠ける点にも課題を残す結果になっている。この他にも、「数学に対する自信/中2(開催国中最下位)」「理科の勉強が楽しいと思う割合/中2(30カ国中27位)」など、高学年になるほど理数科離れが顕著であることもわかった。小学4年生段階でも、成績が高い割に学びに対する自信が低く、苦手意識が高いという傾向が顕著である。 教育の世界では、一般的に「わかればおもしろくなる」ということが言われるが、実際にはそうなって行かない様だ。もし、わかることで学びが楽しくなるのであれば、受験を勝ち抜いて大学生になった頃には、学ぶことが楽しくてしょうがなくなるはずである。そうならないのは、学習の特定の場面でわかることの楽しみを味わっても、それが持続できない状況があるからではないだろうか。学び離れという現象は、学びの形骸化を象徴している様に思えてならない。 与えられた問題を解くだけでなはく、自分で問題を創造することを学ぶ。同じテーマを持って、仲間と学び合う。大人自身が、学ぶことを楽しむ態度を持つ。社会の中、子どもの周囲に学びの愉しさを感じさせる環境が乏しければ、一時のわかった楽しさは霧散してしまうであろう。大人一人一人が、問うこと、学ぶことを楽しむ学びの物語を持つ。教師にも自分の学びを愉しむゆとりが欲しい。学ぶ量と、点数に拘り続けると、学びの本質的な部分が痩せてしまう気がする。成果を数に書き換えてしまう風潮は、社会全体を窮屈にし、学ぶゆとりを失ってしまうであろう。 school(scholē/スコレ-)とは元来、“閑暇”という意味を持っている。学校からスコレーが消えた時、学びも希薄になってしまうのではないか。日本に限らず、高得点を獲得しているアジアの国々の子ども達は、学ぶ自信や意欲が低い傾向が見られる。今、ここで点数を稼ぐ教育がいいのか、別の選択肢があるのか、そろそろ本気で考え直してみる時期に来ているのであろう。そうでなければ、点数は取れるが学びは嫌いという傾向は変わって行かないのではないか。健やかな者はより遠くまで行くという。健やかな学力を育てて、人生という学びの長距離走に子どもを誘いたいものだ。 (2007/12/16) |
| 130.かかわり方とわかり方 イ・蒸した芋をピアノ線で切り分けて、干し芋を作る。蒸し上がった直後の芋は、柔らかく、切ってもなかなか分けることができない。子どもが一生懸命芋を分けようと苦心している所に、干し芋生産者の手が伸びる。子どもの手に重なった生産者(ゲストティーチャー)の手がちょっと力を加えると、芋は子どもの掌の中で切り離されて行った。自分の手の中で、バラバラになっていく芋を見て、子どもの目は感動で輝く。 ロ・かつて地域を走っていた鉄道を調べる。すでに、線路も車両も現存せず、情報は書籍やネット、地域の人々の記憶の中だけに残っている。「自分たちで模型をつくってみよう」。車両はもちろん、線路の模型や、前後の駅を示す駅の案内版も作る。 ハ・地域の名物まんじゅうをみんなに紹介したい。説明だけではつまらない。クイズを作って、まんじゅうについての疑問に答えながら説明をする。「こんなクイズができたよ。わたしは、もっとおもしろいクイズを思いついたよ。○○さんの作ったクイズも、おもしろそう」。知恵を出し合って、まんじゅうクイズの内容が豊かになっていく。 ニ・昔の遊びを身に付けながら、遊び方を説明していく。あやとりの遊び方を、一生懸命話そうとする子ども。しかし、なかなか手と口は同時に動かない。「ペアやグループになって、お互いにアドバイスしながら練習するといいかもね」と、先生がアドバイス。15分後、環になって相互に練習をした子ども達の説明口調は、短時間で自信に満ちたものに変わっていた。 イの学習は、干し芋の生産者を目指す学習ではない。干し芋生産者の持つ技術やコツを、体験によって知る。干し芋の向こう側に、それを作る人々の技術の素晴らしさや、困難が見えてくる。地域の名物、干し芋はこの体験を通して、子どもの中で価値が変わっていく。生産者とのかかわり、干し芋づくりとのかかわりを通して子どもは学んでいるのである。 ロの学習は、鉄道会社に就職するための基礎学習ではない。廃線の歴史を通して、地域の人々の思いを知り、すでに無き鉄道の模型を再現する活動を通して、鉄道の歴史と地域の歩みに迫る。社会の中に埋もれている情報を調べ出す学びに加え、リアルな模型を作る活動を通すことによって、廃線と子どもの距離が縮んでいく。造り出すという行為を通して学ぶ。一見、図工の学習にも見えるが、子どもの創造力の奥には、現実の鉄道が走っているのだ。自分たちで造るという、対象とのかかわりを通し、地域の廃線は子ども達にとってこれまでと違った意味を持って立ち上がって行くのである。 ハの学習は、まんじゅうの売店につとめるために、まんじゅうを学んでいる訳ではない。まんじゅうの紹介をするプロジェクトを通して、様々な表現を工夫する活動によって学んでいるのである。友達と同じ意見をまとめる。友達と異なる“異見”を調整しあって、一本化する。友達との意見のかかわりを通して、より質の高い意見が生まれていく。こうして、知を高め合う活動の価値を知り、考え合う力を身に付けて行くのである。 ニの学習は、遊びのインストラクターになる学習ではない。いや、これは、遊びのインストラクターになる学びである。言葉と模範演技によって、昔の遊びの遊び方や楽しさを 表現する活動を通して、子ども達は学ぶ。個別の練習ではなかなか成果が上がらないという子ども達の様子を見て、先生が助言をする。このかかわりが、子ども達のかかわりを紡ぎ出し、相互表現を通しての学びが進む。この子ども達は、昔遊び以上の何かを知り、身に付けようとしていると言えるだろう。先生と友達と、昔遊びとのかかわりを通して、である。 この学習は、静岡県内のある小学校で拝見した、「総合的な学習」の学びの様子である。テーマは「すごいぞ 僕たちの街」。街の個性や特徴を追究し、表現する活動を通した学習である。人とかかわり、地域とかかわり、先生とかかわり、友達とかかわる。その、かかわりを通して学ぶことによって、分かり方が変わる。わかり方が変わると、対象とのかかわり方が変わる。芋は単なる食べ物から、伝統と技術に支えられた名産品に変わり、友達とのかかわりで考えを磨き合うことによって、対話の価値を知る。かかわり方が変わると、分かり方が変わる。この変化が、成長であり陶冶(人間形成)なのである 。総合的な学習は、漢字の反復練習を通して漢字を学ぶ様に、学びの内容と結果が直接的に結びついている訳ではない。だが、かかわるという活動と体験を通して、確かに学んでいると言えるであろう。伝統的教科の様式で学べることと、総合的な学習の様式で学べることは同じではない。総合の学びの価値の大切さを実感させられた静岡の実践であった。(2008/12/5) |
| 129.コミュニケーションのロス・ミス・パス ~組織の危機管理に潜む罠~ 東京都で、重体の妊産婦が救急医療を受けられぬまま、亡くなった事件が問題になっている。産婦人科の医師不足や、複数の大病院が存在する都市故に責任の真空地帯が生じたなど、色々と原因が指摘されている。 しかし、最も重大な問題は、医師間のコミュニケーションが上手く機能しなかった点にある。患者の引受け先を探していた担当医は、緊急性や症状の重篤性を受け入れ依頼先の医師に訴えたと主張している。一方で、引き受け側の医師は、それほど治療の緊急性を感じなかったという。 知識を豊富に持つ医師がいて、高度な医療を施せる機器があり、患者を搬送するシステムを持っていても、コミュニケーションが機能しなければ無意味である。コミュニケーションが機能しない原因は、大きく分けると三種類ある。 ①コミュニケーションのロス=情報を失ってしまうこと。情報が希薄になってしまうこと。 ②コミュニケーションのミス=間違った情報を発したり、間違った情報を信用したりしてしまうこと ③コミュニケーションのパス=情報の受信、発信を避けようとしてしまうこと この三つは、組織運営の命取りになる場合がある。危機管理はコミュニケーションの問題と密接に関わっているのである。個人としても、組織としても、コミュニケーションを失うことは全てを失う危険をはらんでいる。 学校の組織運営や、危機管理もコミュニケーションの「ロス」「ミス」「パス」に注意したいものだ。「そんなつもりで言った訳ではない」「間違った情報を伝えてしまった」「伝えるべき情報を伝え忘れた」、この様な、情報のヒヤリハットは誰でも経験したことがあるのではないだろうか。ちょっとしたボタンの掛け違いによって、失うものは大きい。場合によっては、取り返しがつかなくなる場合もある。(2008/10/23) |
| 128.坂田昌一博士と松陰の指導法 ノーベル物理学賞受賞三氏が名古屋大学で学んでいたということで、名大の教育が話題になっている。名大物理の指導方法は、坂田昌一氏がその基盤を創ったと言われてている。坂田氏は、朝永、湯川と並ぶ素粒子論の大家である。坂田氏が用いた指導法は、課題を中心にして自由闊達に討議を行う形式であったと言う。当初は、「話し合いによって、どんな物理の知識が身に付くのか疑問だ」という批判の声も聞かれたが、現在でもこの指導法が貫かれている。講義によって知識を伝達するのではなく、語り合うという社会構成的手法を中心とした教育が名大では行われていたのである。坂田氏は、こうした学習によって、知識を確かめ合い、問い合い、創りあう力を伸ばそうと考えたのであろうか。 この原型とも言えそうな指導法を用いていた人物がいる。かの、吉田松陰である。一冊の書物を輪読し、話し合いを通して、意見の共通点や解釈が異なる部分を整理してゆくのである。こうして互いに考えを整理し合う行為を通して、それぞれが資料の要点を自分のものにしていくのである。この指導法は抄録法と呼ばれているが、協働による知の再構成を活用した学ばせ方だと言えるだろう。伊藤博文や山県有朋、高杉晋作という、行動する思想家を生みだした松陰の指導法と、ノーベル賞受賞者を生みだした坂田博士の指導方には共通点がありそうな気がする。 考えてみれば、孔子、仏陀、ソクラテス、キリストという四聖人も、師弟や他者との語り合いで指導を試みた人達であった。協働によって人と知が高い次元で結びつくという作用は、昔から経験的に知られていたのではないだろうか。(2008/10/10) |
| 127.協働学力のススメ(続・協働学力の発行) 前作、“協働学力”出版の反響は意外なほど大きかった。少人数・習熟度別学習が全盛の中で、時代に逆行したかの様なタイトルの本だったが、かなり多くの先生方から共感を得ることができた。この本の出版が、私を全国の学校に遊学させてくれるきっかけとなった。都会の学校にも地方の山村の学校にも、学び合い、考え合い、協働を通して充実を生み出し合おうとする先生方と子ども達がいた。 “協働”は指導のスタイルだと思われがちである。しかし、グループ学習やペア学習という指導スタイルの中に、協働的な学びの本質が存在している訳ではない。共に学び合う活動の質を高め、学習成果の質を高めて行こうとする“指導スタンス”が、協働的な学習の価値を高めているのである。学び合いという学習方法が優れているのではなく、優れた学び合いを促す指導が高い教育成果を生む。そう信じる先生方の姿勢から、多くのことを学ばせて頂いた。 更に、学校だけでなく、企業における研修も協働化が進み、グループによる体験活動や課題解決的実習、ワークショップによって研修が実施されていることも学んだ。実社会の学びが、協働化-体験化-具体的活動化しているのである。そうした研修の場で、他者と上手く関わることができない方々の姿も見た。『協働できる資質・能力は子どもが将来必要とする学力なのだ』という実感は、自分の中で一層揺るぎないものになって行った。協働は単なる指導法、学習法ではない。社会に参加することを学び、社会に参加することによって学び、個が社会と結びついていく学びなのである。指導の効率や効果という次元だけでは語れぬ、教育の価値が“協働”中に存在しているのであろう。 今回上梓した「続・協働学力」では、協働で学ぶ価値と、協働で学ばせる支援のポイントを簡素にまとめてみた。他者との関わりを通して学ぶ効果と価値を、少しでも多くの方々に考えていただければ幸いである。(2008/9/17) |
| 126.見いだし合う能力~ネット上での分散知の集約~ 最近は、ネット上の情報を安易に流用する、“コピペ”なる行為が問題になっている。ネット上の情報を安易に切り取り、自分の原稿や文章に貼り付けてしまうのだ。他人の文章や考えを流用することによって、自分で考えたり創り出したりする労力を省こうとする。自分の頭をひねって知を創り出す活動が少なくなれば、情報を剽窃した者の思考力は停滞してしまうに違いない。知的創造性を欠いた消費的な情報の使い方をすれば、自分の知性が堕落してしまうのである。一方で、ネットを創造的に活用すれば、情報そのものを創造するだけでなく、情報を使う者自身の成長を促す場合もある。 この数年、自分自身が様々な教育関係者のメーリングリストに登録することになった。このリストを通じ、教育者と教育者を繋ぐ情報がメールとして、毎日着信するのである。メールで交換される内容は、授業設計や会合の企画など多岐に亘る。こうした情報のやりとりを拝見していて感じることは・・ ①向社会的態度を持っている(自分から、様々な活動に参加していく態度を持つ) ②批判的学習モデルと経験的学習モデルの双方を状況に応じて使い分けている(活動の根拠や背景の吟味と、実践-経験を結ぶ省察力、論理性を持つ) ③同じ文面のやりとりの中から、自分に必要な情報やヒントを見いだす能力 ・態度を持っている先生が多い。加えて、自分達のプロジェクトの課題や 内容を相互に見いだし合う力も持っている(協調的課題解決と協働的創造、自らの知的充実の反省的実感力を持つ ④こうした傾向は、年齢や性別とさほど関係が無い様だ ということである。 近頃、北海道を中心に活動を展開しておられる山本先生、横藤先生等の情報交換を眺めていると、こうした能力は教員だけでなく、これからの子ども達にも育てたい力だと感じる。 近年の企業では、クロス・ファンクショナル・チームによる活動が注目されている。立場や経験が異なるメンバーが、質の高い結果の創造を目指して協働していくのである。こうした活動は、個の力を拡大し、質の高い課題解決を可能にし、個々の成員が所属する組織の風土も変えていく可能性を持っている。進化を生み出す創造性は、互いに存在や課題を見いだし合うことによって高まっていくのであろう。 変化に対応する追従型の知性だけでなく、変化を創り出す前進的知性が時代を拓いていく。その核になる力は「見いだし合う力」なのではないだろうか。(2008/9/5) |
| 125.同語反復的学力観を信奉するマスコミ “漢字の練習をしたら、漢字テストの点数が伸びた”“計算ドリルを学習したら、計算テストの点数が伸びた”。これらの現象は、しごく当然のことでである。短距離走の練習をすると短距離走のタイムが短縮できる。筋トレをしたら前より重い物が持てるようになる。ドリルを行うとドリルの点数が伸びるのは、練習の方法と評価の方法が似ているからである。先行した学習と同様のテストを行えば、テストの点数が高くなるのは当たり前のことである。 先日、某放送局では全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の成績分析を行っていた。そこでの主張とは、「基礎学力が高い県は、朝にドリルをさせている。従って、A問題の成績を伸ばすにはドリルが効果的である」という内容であった。更には、「県庁が数値で目標を設定した点」を評価している様であった。「数値で管理をすると学力が上がる」「基礎知識は基礎的な問題でトレーニングをさせると点数が伸びる」という近視眼的視点から、学力向上の正義を声高に語るマスコミ。“Aを行うとAが得意になる”という同語反復的学力観を、もっともらしい言い回しで語る側の読解力や判断力の方が心配だ。教育改革はマスコミ改革から始めなければ、量と圧力に頼る物理的/力動的学力観を再生産し続けることになる。 ①目標を数値で掲げるということと、成績の向上に因果関係は乏しい。数値 目標を設定しながら、学力が低下した県もある。目標を設定することより も、目標の実現化を図る社会構造をデザインすることが肝要である。 ②公教育の教員は目標化できる教育領域以外の、様々な教育価値を具現化す べく努力をしている。目標準拠教育の偏重は、目標化できない部分の教育 価値をないがしろにする恐れがある。目標の具体化の可能度と、教育目標 の価値は同じものではない。 ③知力と社会性は、学びつつ実社会を生きる資質の相互基盤である。社会性 の乏しい知のみを重視した教育ではなく、社会性と知力の相互基盤を視野 に入れ、実用的知性を育てる学習が必要である。 ④実社会のワークプレイス・ラーニングはその殆どが、体験化-チーム活動 化している。子どもが大人になっても、チーム的な学習に参加する能力が 乏しければ、知を実用的に駆動したり創造することが苦手になってしまう。 AだBだというテスト結果に、過敏な反応を見せるのは、評価が教育を振り回していることを意味している。評価に振り回されず、必要な教育価値の見極めと実現が重い意味を持つ時代になっているのではないか。(2008/9/1) |
| 124.実践から見える教育の「不易流行」 先日、静岡県大井川町全体研修会で、小学校2校の研究発表を拝聴する機会を得た。中学年の社会科と総合的な学習の時間という二つの実践が紹介された。社会科では「調べの観点を明確にすること」、総合では「学習と体験の結びつきを明確にすること」を重視した指導が行われていた。 二つの実践とも「子どもの問い」を重視した指導を目指し、子どもの「問い心」を広げ高める指導が構想されていた。調べ学習(社会科)における調べ行為も、体験から問いを深めていく探究(総合)も、その背後には子どもの問いが必要となる。問い心の浅い調べや探究では、調べや探究による成果の質は高まらないであろう。“学びの本質を問う問い”から構想された先生方の実践からは、学びの充実を感じることができた。 指導要領が変わる、時代が変わる、子どもが変わる。そうした変化ずくめの社会の中であっても、教育において変わらない本質に立脚した実践は、誰が見ても価値を感じることができる。変化した部分も大事だが、変化していない部分にも教育の本質は存在しているのである。 臨時教育審議会で教育の不易流行論が主張され、以後、様々な教育の不易流行論が生まれた。「不易があっての流行である」、「“不易流行”は表裏一体だ」、「時代の流れに左右されない部分と時代の流れに対応する部分の調和が大事だ」・・・・。この他にも、様々な教育の不易流行論がある。 大井川町の2校の実践から感じたことは、「教育の本質的な不易に接近し続ける活動が流行の実体である」ということだ。本質を求め続ける先生方の姿の中にこそ、教育の不易と流行が存在するのである。一時流行ではなく、継続した実践的追究こそ、教育の不易流行なのであろう。 (2008/8/6) |
| 123.“見よう見まね”は社会標準の学力 夏休みに入り、アルバイトをする高校生の姿が所々で見られる季節になった。自宅近所のスーパーで、高校生らしき数人が、アルバイトの研修を受けている場面に出くわした。「いいですか、口で言ってもわかりませんから、レジの後ろで店員の動きを見ていて下さい。品物をどう動かすのか、どうやってお金を受け取るのか、そうした流れをしっかり見ていてください」。なるほど、見習いとはよく言ったもので、見て習うという学び方は“社会標準の学び”であるらしい。筆者もかつて仕事を転々としたが、どの職場でも“見て覚える”という学びが原則であった様に思う。 ①言葉で細かく説明したからと言って、説明されたことが理解できるとは限らない。 ②実社会の仕事の中には、言葉で説明しきれない要素がたくさん含まれている。 ③教わる側が学ぶ気になって、自分から覚えよう、理解しようという気持ちにならないと学習効率が悪い。 社会の中での実際の学びは、机上の学びと異なる能力を必要とする様だ。言語による理解力は大切な力であるが、人間の理解力はそれだけではない。実生活に近い、見て学ぶという活動は、教育において軽視されやすい気がするがいかがなものであろうか。見て学ぶ力は、現実的な視点から見れば「生きる力」の基礎的な力である筈だ。他人のやり方を見ながら要領を得るという学びは、大人の職場では最も多用される学び方である。心理学ではこうした学習を模倣学習と呼ぶ。“見習う”とは古くさい表現に聞こえるかもしれないが、「環境への迅速な適応」や「複数のメンバーの学び合い」など、多くの可能性を秘めた学び方なのである。 そういえば、自分の身近に“○○で見た授業をちょっと真似てみました”という言葉が口癖の先生がいる。いつも子ども達に歓迎される授業をする先生だが、学び方が上手いのであろう。こう考えると、教師にとっても見て学ぶ力は、指導力と無関係ではない様な気がする。 先般、宇宙から帰った星出彰氏彦は「今回の飛行で、クルー(同僚)から沢山のことを学べたことと、地上のチームから沢山のことを学べたことが非常に大きな収穫だった」と、NHKのインタビューに答えていた。なるほど、このレベルになっても、他者から学ぶという能力は重要な力なのだ。見よう見まねは、見よう!という意欲に始まるのである。(2008/7/21) |
| 122.生涯楽力(岩上進先生の姿に学ぶ) 先日、岩上進先生 (元全国都市教育長協議会会長)と、郊外の大規模店で偶然鉢合わせになった。久しぶりの再会となり、「コーヒーをご馳走するから」という言葉に甘えて、先生の街角講義を拝聴する機会を得た。岩上先生のお話を伺っている時、常に感じることは「面白い」という言葉を連発することである。 「生物と無生物の差がどこにあるのか。調べていくと、これが、とても面白い」「学習というものは、比較をさせる、対比をさせることによって、子どもにとって面白く、印象に残る知識になる。比較するということは、比較の仕方、させ方で面白くなる。そこが、面白い」。「教育における人事とは・・・」「組織における個人の責任の大きさとは・・・」、様々な話題に移って行っても、お話の最後は「それが、面白いところなんだなぁ」という言葉で締めくくられる。伺えば、御歳82になられるとのこと。 年齢と知的好奇心の衰えは、岩上先生のお姿を見ている限り、無関係の様である。常に、好奇の眼を持って現象や情報を受け取り、自分の思考を通して考えを繋げ、意味を見出し楽しんでおられる。「ネットは便利だけれど、独立して切り出された知識だけでは役に立たない。繋がり、系統、構造として知を捉えた学びが大切なのだ」と、先生は言葉を締めくくられた。 知的探究をする態度は、一生モノの学力であり、充実した人生を創り続ける力でもある。岩上先生の生きる姿が、何よりも饒舌にそのことを物語っているのだと実感させられた再会であった。 (2008/7/16) |
| 121.勉強“が”できる力 と勉強“に”できる力 先日、日本生活科・総合的な学習教育学会の全国大会に参加をして来た。拝見した研究公開授業では、子ども達が他者との話し合いを通して、自分の言葉を自分たちの言葉として意味を高めて行く様子が印象的であった。子ども相互の対話によって、自然と思い違いに気が付いたり、言葉の意味に対する勘違いが修正されていく。子ども達は、対話の中で間違いを見つけ、意味を構成していく能力があることを実感させられた。 また、全国から集まった実践家が、様々な研究成果を発表する場もあり、大変参考になった。この研究発表の場で、日本の教師文化の中には非常にいい言葉があることに気が付いた。「この研究を通して、一番勉強になったのは私です」「興味深い発表をお聞きし、大変勉強になりました」という言葉である。「勉強になる」という言葉は、自分の周囲から学びを掴み上げていく能力や態度を象徴した言葉だ。「勉強にできる力」は教師の世界でも、価値の高い態度、能力なのであろう。 子どもにも「勉強ができる力」を育てることは大切なことであろう。だが、加えて「勉強にできる力」を育てることができてこそ、知識基盤社会を生き抜く「生きる力の基礎」を培うことができるのではないか。「勉強にできる力」は探究的な学びによって、自ら問いや知を掴む活動でこそ学べる力なのであろう。 20087/7 |
| 120.一回性の窓から子どもの学び世界を見る 授業という現象は極めて、個性的的で特殊な現象だ。今、ここで学ぶ子どもも、教師も二度と同じ学びを繰り返すことはできない。たとえ、同じ学習内容を繰り返して学んでも、それは同じ学びを繰り返したとは言えないだろう。一回性が高く極めて特殊な現象が、授業という現象なのである。これを捉えてゆくには、“川の水の如く流れゆく授業という現象”を心に留め置く意識を持つことが要求される。 さて、この度、「こどもらしさに学ぶ(授業改善研究会)」の第16集を頂戴した。授業の記録や分析、研究会・研修会で学んだ事などが、“多様な立場の執筆者の今”としてこの冊子にまとめられている。授業の中で子どもが見せた表情や発言の動きから、子どもと学びの接近を読み解く。あるいは、学びを通して、子どもの心が繋がり合ってゆく過程を考察していく。ぞれぞれの学校の、それぞれの子どもの中に起きている今を捉えて、指導の共有知に換えて行こうとする教師の姿がこの冊子から見えてくる。授業という一回性の高い現象の中から教育的な何かを掴み上げ、共に見つめて行こうとする教師の姿勢がこの冊子の根底にあるのだ。 科学は一回性を普遍性に繋ぐことによって、客観的な全称命題の知識世界を作り上げて来た。誰がリンゴを落としても、9.8メートル毎秒で落下する。誰が、どこで実験を行っても、結果が同じにならなければ科学とは言えないのである。だが、教育の世界では、一回性が直ぐに普遍性に結びつく訳ではない。一回性の窓から見つけた子どもの姿や教師自身の気づきを、普遍に結びつけてゆく努力があってこそ「学びと教えの普遍」に近づいて行けるのだ。それは、子どもの姿に近づき、教師自身が自分の姿に近づくことでもある。更に、一人ひとりの一回的な体験を記録・分析し、共有しようとする同朋があってこそ、学びの一回性を普遍に換えて行けるのだ。 一回性を普遍に繋いでいくためには、一過性の活動では効果が期待できない。継続的に互いの活動を読み解きながら、自己の指導力の普遍として高め合う活動があってこそ「授業改善」に繋がっていくのだ。「子どもらしさに学ぶ意義」は、一回性の窓から見えた学びの風景から指導の資源を汲み上げ合う教師の協働が創り出しているのである。(2008/6/5) |
| 119.「楽問楽聞(がくもんガクモン)」 この春から、NHKで“爆問学問”という番組が始まった。 「教養立国ニッポンを目指して・・・・。 時代は、教養を欲している…。その時、教養って何だろう?。今だからこそ、爆笑問題が、問う、学問の本質・・・。爆問学問」 と、番組紹介のホームページに書かれている。様々な分野のエキスパートから、その分野の最先端の話を聞くという趣旨らしい。爆笑問題という一般人代表が、現代知の巨匠から新しい教養を引き出していこうとしている様だ。しかし、この番組を見ていると、知識が増えるというよりも、次々と問いがわき上がって来る。そして、知のエキスパート達こそ、問い続けの人生を過ごしていることが見えてくる。 学びでも、子どもにとって問いが無い学びは、貧しい学びなのではないか。かつて、ある中学生(埼玉県:比企地区)からこんな話を聞いたことがある。「調べればわかると思って調べたら、わからないことが増えてしまった。わかったら面白いと思ったけれど、わからないことが増えるのも面白い」 なるほど名言である。問うことは考えの種に水遣りをすることに等しい。学ぶ態度を育成するならば、知識の量を増やすだけでなく、問う楽しさを学ばせる必要があるだろう。 楽しく問う、問うことが楽しいから、他者の話も楽しく聞ける。問うことの楽しさを感じることができない学びを続けて行けば、子どもは考えることから逃げる様になる。人間は、楽しくない行為から逃避しやすいのだ。楽学楽聞(がくもんガクモン)があってこそ、学ぶ態度が育つのであろう。 (2008/5/15) |
| 118.「下田小学校の研究と“三つの詳しさ”」 病気と治療に詳しくなければ、よい医者にはなれないであろう。同様に、歴史学者は歴史に詳しくあるべきであり、料理人は料理の味付けや盛りつけに詳しくなければならない。では、教師は何に対して詳しければ、よい教師と言えるのであろうか。 「詳」という文字の偏の“部首=言”は、文字通り言葉を意味している。旁(つくり)の部首である羊は、姿や形を意味する象形である。漢字の成り立ちから考えると、ものの姿を言語化することが、“詳しくなること”だと言えるだろう。このことから考えると、「子どもの姿に詳しくなること、学習の内容に詳しくなること、内容の学ばせ方に詳しくなること」という、三つの点に詳しくなることが教師にとって必要なのではないだろうか。 ![]() 静岡県下田市立下田小学校(小澤義一校長)では、「共に学び合い、高め合う授業」を主題に校内研究を進めて来た。先日、研究の反省と分析が、研究主任の高田大祐氏から送られてきた。 下田小学校の研究の足跡を拝見し、感じたことが、前述の「三つの領域への精通」ということである。 同校の研究の特徴は、 ①“その子の学びを追う=子どもの学ぶ姿への着目” ②“子どもの学ぶ姿を語り、考え合う=子どもの学びの姿を捉え合い、意味 づけ合う” ③“教師の教材観、知識観と子どもの学びを繋ぐ手だての具体化=学ばせ方 の開発と創造” という三つの点にあると思われる。 下田小学校の研究では、子ども、学ばせ方、学びの中身という、三つの領域について教師陣が“詳しくなって行く姿”を読みとることができる。「共に学び、高め合う」のは子ども達だけではなく、教師自身に求められる姿でもあったのだ。下田小学校の研究要項には、子どもの学ぶ姿、教師の指導姿勢、指導の方法と期待する成果が詰め込まれている。 個か集団か、協働か競争かという、教育的に不毛な思弁的対立を越え、「子どもも教師も社会的な相互関係を通じて成長するのだ」ということが、同校の研究から見えてくる。 「友と学び 共に学び 学びを友とす(問者)」 今年度、これから研究を具体化する学校では、同校の研究スタンスを参考にしてみては如何だろう。“三つの領域に詳しくなる研究づくり”には、必ず役立つ筈だ。詳しさは、詳しくなろうと願う者にしか、与えられることはないのである。(2008/5/1) |
| 117.「リポート(report)・トーク」と「ラポート(rapport)・トーク」 “発表”という学習活動は、「総合的な学習の時間」の研究発表会などで良く見られる学習活動だ。それまでの学習の総括として、課題追究の過程を説明するためには、発表という活動が適していると考えられているためであろう。「総合的な学習」導入の初期は、調べ、まとめて、発表するという学習(追究)過程を用いた学習が多く見られた。 発表の項目には「なぜ、その課題を選んだのか」「その課題を追究するために、どの様な活動をしたのか」「その結果何を知り得たのか」「知り得た結果から、次に追究すべき課題をどう設定したのか」という様な項目が、含まれていることが多い。しかし、発表の各項目に充てられる時間配分や、内容の密度は子ども達の課題追究姿勢によって大きく異なってくる。 「調べる」という行為に重きを置いた学習では、調べた場所や内容、方法に関する発表内容が多くなる傾向がある。また、「課題構成」に重きを置いた学習では、「課題を構成していくまでの過程」に関する発表内容が増えるケースが多い。どの学習段階や、学習行為に重きを置くのかという点については、指導者のねらいや学習者の課題追究の個性によって異なる。従って、どの段階の学習活動に重きを置くべきか、一概に言うことは難しい。 発表から学習の充実を推察する場合には、「リポート・トーク」の色合いが強いのか「ラポート・トーク」の色合いが強いのかという点に着目して考えてみたい。「リポート・トーク」は事実としての情報が中心であり、やや事務的な内容の発表を意味する。何を調べたか、どこで調べたか、調べた結果何が分かったか、と言うような情報は「レポート的」な発表内容である。 一方で、調べた事実や分かったことに加え、“自分達の主張を伝える内容”に重きを置く発表内容が「ラポート的」な発表である。 「総合的な学習の時間」の学習は、客観的な知識の発見や習得を学習の最終的なねらいとしている訳ではない。知識と繋がることだけではなく、知識や事実と自らを繋げ、考えや意見を創造していく。創造した考えを表現するだけではなく、行動や共感を訴え、他者に対する働きかけをする。止むに止まれぬ“切実な思いとしての表現”が生まれてくれば、総合の学びが深まった証だと言えるのではないか。また、そうした考えや思考を深めやすい学習が、「総合的な学習」の特徴だと言えるであろう。切実な思いを伝えるラポート・トーク。表現をする行為そのものだけでなく、何を伝えようとしているのかという視点から、子どもの学びを読み解いて行きたいものだ。(2008/4/21) |
| 116.変わり行く“学力の物差し” 前回の論壇では、学力を捉える言葉の物差しについて考えた。学力は学力を捉える物差しの性質によって、値打ちが決まってしまう。例えば、問題に答える力はテストによってある程度は評価することができる。しかし、問題を発見する能力は旧来のテストによって測定することが難しい。PISA調査の様に、「様々な情報を読解し自分の考えを創造していく力」も旧来のテストでは測定しにくいであろう。 最近企業が人材に求めている“地頭力”も、これまでの教育では重視されなかった学力だ。地頭力とは既知の知識に縛られず、創造的に課題解決を進める能力である。最近の入社試験では、「富士山を動かすにはどうしますか」、「世界6大陸のうち1つをなくすとしたらどれですか」という様な、突飛とも思える問題を出す企業がある。こうした問いは、既知の知識を再生するだけでは答えられない性質を持つ。この問いでは、創造的な思考力という学力が試されているのである。単純計算が速くこなせるという学力とは、質が違う学力だと言えよう。今、企業は“地頭力”という学力の物差しを使い始めているのである。 学力の物差しには「他者とかかわる」という物差しもある。学力は個人の頭の中から他者の頭の中に拡張されていかねば、実用的な力とはならない。実際の知的活動場面では、他者の考えや知識を理解、解釈し、批判し、変形し、模倣したり加工したりし合うことによって、考え合いが進むのである。「他者とかかわる学力」が乏しければ、知を“生きる力”に変えて行くことはできない。 知的協働を可能にする学力が、「他者と知的にかかわる力」だ。協働の学力と呼ぶこともできる。学校で育てるべき学力の基礎領域は、社会の変化と共に変化をして行くのであろう。 (2008/4/11) |
| 115.「高める 広げる 持ち続ける」 “学力”は高低という言葉の物差しによって表現されることが多い。しかし、学力は高低という言葉のみで表現できるほど単純な力ではない。それでは、他に学力を表現できる言葉の物差しはあるだろうか。 例えば、「広さ」という言葉の物差しはどうであろう。高低が上下垂直の物差しだとすれば、広い-狭いは水平の物差しである。「広い学力」とは、柔軟性の高い学力だ。漢字の学習で考えれば、書くことができ、意味が分かり、使い方が分かり、熟語も知り、文章の中で用いることができて、自分の意見を述べる場合にも使うことができる。こうした、漢字の知識を多様な目的に応じて使うことができる力が、学力の広さである。どんなに沢山の漢字を書くことができても、実際の生活で使うことができなければ「狭い学力」に止まっていることになる。 次に、垂直、水平の物差しに、時間という物差しを加えてみよう。「持続」という学力の物差しが考えられるだろう。学び続ける態度の持続や、学んだ知識を忘れぬ知の持続力。“よく見聞きし分かり そして忘れず”(雨ニモマケズ)。学力には「持ち続ける」という、時間軸の物差しも必要なのである。 新しい指導要領はバランス型の学力定着を目指しているという。この趣旨は、高さと低さという単純な物差しから学力を解放することを意味している。「高める 広める 持ち続ける」。学力を縛る言葉の物差しにバリエーションを加えることから、学力の捉えが変わって行くのである。次回の論壇では「かかわる」という物差しで、学力を考えてみる。(2008/4/4) ※中央教育審議会 総会(第225回) 「つまり、試験というのは、学校の縦の関係の問題で、ドーアによれば、大事なのは学校教育の内容で、これが犬の本体なら、入試というのはしっぽのようなものだと。ところが、日本の教育はしっぽが犬を振り回しているといって、書いていましたけれども、やっぱり体がしっぽを振るような教育制度にしなければいけないのではないかと思います。」 ・・・。実に興味深い指摘である。 |
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114.経験を編み直す指導と研修 |
113. “学力の人間化”を目指すこれからの教育教育の世界的な流れは、学力という言葉の意味を変えようとしている。特に、「国際標準の学力」という概念の登場は、旧来の学力の意味を大きく変化させ始めている。教育は、“子どもの学力を伸ばすこと”を主要な目的とした活動だ。したがって、目的とすべき「学力」が変化をすれば、目的=学力を実現する手だてや方法にも変化が生じる。では、これまでの「学力」と「国際標準の学力」はどこが違うのであろうか。その違いを象徴する言葉が、「キー・コンピテンシー(鍵となる能力)」という言葉だ。この言葉はPISA調査を主催するOECD(DeSeCo)の提唱による、新たな学力の枠組みだ。これから改訂を迎える指導要領や、活用の力を重視する教育は、キー・コンピテンシーの概念を色濃く反映している。キー・コンピテンシーは、「相互作用的に道具を用いる力」「異質な集団で活動する」「自律的に活動する」という三つの範疇を要素としている。 1/相互作用的に道具を用いる ・言語、シンボル、テクストを相互作用的に用いる能力 ・知識や情報を相互作用的に用いる能力 ・技術を相互作用的に用いる能力 2/社会的に異質な集団で交流する ・他人といい関係を作る能力 ・協力する能力 ・争いを処理し解決する能力 3/自律的に活動する ・大きな展望の中で活動する能力 ・人生計画や個人的プロジェクトを設計し実行する能力 ・自らの権利、利害、限界やニーズを表明する能力 この、キー・コンピテンシーは、エンゲストロームやコールが提唱した「活動理論」から大きな影響を受けている。エンゲストロームはフィンランドのヘルシンキ大学教授であり、フィンランドの教育界にも大きな影響力を及ぼして来た。近年、PISA調査におけるフィンランドの成績の高さは世界から注目を浴びている。そして、フィンランド教育の持つ教育システムが非常に注目を浴びている。フィンランドの教育システムを模倣すれば、同様の成果が得られる様な錯覚をもたらしている様な気もする。 だが、PISA調査の基本的な考え方を支えるキー・コンピテンシーと、フィンランド教育の基本的な考え方には共通点が多いことにも着目すべきであろう。つまり、フィンランド教育では日常的にPISA的な学力観に基づく学習を行っているのである。 探究型の学習、体験的総合的な学習、グループ学習を多く取り入れた学習を行っている。知識を使いつつ身につける、知識の使い方も身につけるという学習が日常的に行われているのだ。PISA的な出題の形式や、その背後にある学力観に子ども自体が親しんでいるとも言えるだろう。PISA調査で測ろうとしている能力と、フィンランドのカリキュラムは類似した学力観に根ざしている。恰も、フィンランドの学力モデルが世界標準になろうとしている様にも見える。 PISAとフィンランドの教育観・学力観の共通点は、「学びの人間化」という点にある。それは、道具(言葉や物理的機器)を活用し、思考や表現を他者との関わりの中で実用できる能力を育てる教育である。机上の学習で「子どもを学力化すること」ばかりでは、「国際標準の学力」を身につけることは難しいだろう。PISA的な学力への対応に振り回されるだけではなく、フィンランドの如く教育者自らが教育の在り方を開発せねばならない時代に入っているのではないか。 (2008/3/5) |
112.学欲の生起と仲間効果110号で「大学生の学欲崩壊」について書いた。この東京大学の調査グループの調査結果から見えてくることは、ネガティブな内容ばかりではない。たとえ少ない割合であっても、「学びが好き、読書が好き、講義に関心が高い」という大学生が存在することにも注目すべきであろう。では、こうした「向学心(好学心)」を持った学生は、自分ひとりで学ぶ意欲を高めることに成功しているのであろうか。そうではなく、学び合ったり、一緒に課題を追求したりする仲間に恵まれていると考えた方がよいであろう。自分一人で誰とも考えを交換せず、競争も協同も無く、孤独の中でそれほど高い学びのモチベーションが維持できるとは考えにくい。 教師もそうであるが、優れた実践者はよい仲間に恵まれていることが多いと感じる。実践を報告しあったり、お互いに意見を交換したりして知的な刺激を受けあっているのであろう。よい学びの態度は、よい仲間を持つこととも大いに関係がありそうである。 ・友と学び、共に学び、学びを友とす(問者) (2008/3.1) |
| 111.改善は教師の支援から~実践現場の教育資源~ カリキュラムには、三つの次元がある。「意図したカリキュラム」「実施したカリキュラム」「達成されたカリキュラム」(村瀬,2005)の三つがそれである。別の言い方をすれば、「教師が意図したカリキュラム」「教師が子どもと共に実施したカリキュラム」「子どもが受け取り、教師が達成したカリキュラム」 とも表現できる。教育行為はあらゆる段階に、計画、実行、達成(評価)の次元がある。 先日、新しい指導要領の案が公表された。いわば、国レベルにおける教育実行の指標であり、今後の教育の包括的青写真と言っても良いであろう。今回の指導要領改訂では「中心教科の時間数増と内容の増」が、話題を集めている。マスコミはまたしても「ゆとりか詰め込みか」という、次元の低いレベルで衆目を集めようとしている。「どうするゆとり世代」「ゆとり教育から転換」など、マスコミの見出しはゆとり教育からの方向転換に焦点を当てたものが多い。 文部科学省によれば、今回の学習指導要領改訂のポイントは、 ①改正教育基本法等を踏まえた学習指導要領改訂 ②「生きる力」という理念の共有 ③基礎的・基本的な知識・技能の習得 ④思考力・判断力・表現力等の育成 ⑤確かな学力を確立するために必要な時間の確保 ⑥学習意欲の向上や学習習慣の確立 ⑦豊かな心や健やかな体の育成のための指導の充実 の七点だという。しかし、「理念の共有や学習意欲の向上」など、見えにくい部分については、マスコミの注目度は低い様だ。 教育の目標や指標を明文化することは、それほど難しいことではない。「確かで高度な学力を身につけるようにすること」「継続的に学び続ける態度を育てること」など、いくらでも“書くこと”は可能である。それでは、教育の目標を明示すれば、教育の改善は進むのだろうか。教育改善の真価は、実践によって行為されるか否かによって決まるのではないか。書かれた教育、理想的な結論としての明文化された目標を把握し、それを実践として行うことが教育を変えて行くのであろう。そして、理念を実践の次元に上げていくためには、教師の実践を支援することが必要であろう。 エンジンの排気量は同じ(指導資源)、バスに乗る子どもの数も同じ(子どもの数)、しかし、回るべきバス停の数(目標や指導領域)と走行距離(指導時間)は増加する。教師が使える教育資源を増やし、実践の場を動かしやすくする支援こそ、これからの教育に求められるのではないだろうか。“書かれたもの”を論ずるだけでなく、“教育を行う場”への支援を具体的に考えるべき時に来ているのではないだろうか。(2008/2/19) |
| 110.大学生の“学欲崩壊” ①「1日1時間以下=64%」「まったくしない=13%」(計77%) ②「よくある=17%」「ときどきある=45%」(計62%) ③「まったく読まない=29%」「1冊しか読まない=28%」(計57%) ![]() それぞれ、日本の大学生の①勉強時間②授業に関心がわかない割合③読書量のアンケート結果である。国公私立127大学の約5万人を対象に、東京大学の研究グループが調査を行った結果がこれだ。 一方で、高校3年生の勉強量は「1日4時間以上=34%」「3時間程度=23%」だという。大学受験を控えた高3時点が「瞬間最大学力だ」と言われるが、その言葉を実証する様な調査結果となった。 ・勉強は試験で点数を稼ぐために、仕方なく行うものだ ・卒業さえできればよいのであって、特に学びたいとは思わない ・異性との交友や消費活動に関心のほとんどが費やされている ・知的な興味・関心に乏しく、学びを求めたり解決を追究する知的課題を持たない というのが、一般的な大学生の知的指向性であるらしい。低学欲の学生を抱えている大学の苦悩は察するに忍びない。大学教育では、ファカルティ・ディベロップメント(指導・教授力開発)の推進が叫ばれているが、学び離れ、知識離れする大学生を講義につなぎ止めて置くことは容易ではないのであろう。 今、初等中等教育では、カリキュラムの過密化による学力の向上を目指そうとしている。知識を多く身につけさせなければ、知的関心の元を育てることができないというが、知識を身につけても学欲が育つとは限らない。繰り返せば覚えるという事実もあれば、繰り返すと飽きるという真実もある。今回の大学生の知的態度から、教育界は何を学ぶべきなのであろうか。“追いつく学力=知識”だけでなく、“追いつかない学力=知的好奇心” を育てて、確かな生涯学欲の定着を図りたいものである。(2008.2.5) |
| 109.「聞くこと」の難しさと、学び合いの指導 子ども達にとって、「聞く」という行為はなかなか難しい行為である。 学び合いや、伝え合いの指導をしようとしても、「聞く」ということができない子どもがいる。あるいは、「聞くことができる子どもと、できない子どもの差が大きい」という先生方からの指摘を聞かされることも多い。考えてみれば、小学校低学年の児童は、聞く、話すという行為に慣れていないのである。小学校低学年からそれほど「聞く」という行為に習熟しているのであれば、教育の必要は無いであろう。だからこそ、「聞く態度や能力」を育てて行く必要があるのだろう。 そもそも、「聞く」という行為は大人にとっても、かなり難しい行為なのである。身体的に「聞こえる耳」は持っていても、「聞く耳」を持っているとは限らない。「聞く耳=聞く態度」は育てなくては、育ちにくい社会になっているのだろう。柳原可奈子というお笑い芸人が、独り言を延々と繰り出す話芸で人気を博している。相手の状況とはお構いなく、一方的に話し続ける若者の姿を演じる芸である。彼女によれば、「一方的に話すだけで人の話を聞かないので、対話になっていない」という発話スタイルに、この芸の特徴があるという。 「聞く」という行為は、本来、事前に「問い」を必要とする行為なのではなかろうか。問いたい事柄があればこそ、聞く意欲や必要性は高まるのである。ところが、学習の場面では常に子どもの問いに応えている訳にはいかない。子どもが問いたい内容は、教師が教えたい内容だとは限らないのである。一方で、人間は自分が問いたいこととは無関係に、聞く必要、聞かされる必要に迫られる場合もある。子どもに聞く態度を育てることが、いかに重要なことであるかは言うまでもないことであろう。 子ども達は聞くことが苦手だから、学び合いの指導や伝え合いの指導が成立しにくい。だから、個別に手厚く指導したり、知識や語彙を教える学習を優先させたいという話もよく聞く。しかし、個別に指導をするということと、聞く態度を育てる指導を天秤にかけることはナンセンスであろう。どんなに手厚い指導を施しても、子どもが「聞けない」のでは、指導効果は期待できない。あるいは、知識の習得を優先するから「聞く態度の育成」を後回しにするということで、問題は無いのであろうか。「聞く態度」は学ぶ力の根元的な能力である。「聞く態度」を後回しにしても、教えればできる様になるのであれば、問題は無いのかもしれない。しかし、「聞く態度」を育てるには、学習や体験の積み重ねが不可欠なのではないか。「聞く態度の育成」が手遅れになった時、学級経営の問題や学習指導の問題とならないか心配である。(2008.2.1) |
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108.史上最悪の流行語 先日は電車の中で、菓子の取り合いをしている子どもを見かけた。「うるさい、迷惑になるからやめなさい」という父親に向かって、「でも、そんなの関係ねぇ」と子どもが言い放ったのには驚いた。教育の世界では、“伝え合う学びや”“自らを律し他者との協調を大切にした学び”が注目を集めている。その最中、テレビから「そんなの関係ねぇ」という人と人の間を切り離す言葉が、子ども達の中に刷り込まれていく。 この言葉で更に気になる点がある。それは、「でも」という表現だ。相手の気持ちや願い、相手の状況がわかっていたとしても、その一切を切り捨ててしまう言葉。他者の価値を無化してしまう力が、「でも」に含まれている。相手がどうであれ、“でも”関係ないとは、なんと冷たい言葉であろうか。 「どんな関係があるのか」という関係を見つけることこそ、すべての学びの本質である。モノとコト、コトとトキ、トキとヒト、ヒトとヒトはどこかで関係している筈だ。どんなに知識をため込み、知識と繋がったとしても、他者と繋がらない学びは寂しい学びだと言えないだろうか。(2008/1/6) |
| 107.総合の学びに見る 「オリジナリティ/クオリティ/リアリティ」 総合的な学習で学びの充実を感じている子ども達には、三つのキーワードがある様に感じる。オリジナリティ(独自性) クオリティ(質)リアリティ(現実性)の三つがそれだ。 オリジナリティ(独自性)は、自分(達)らしさである。例えば、福祉をテーマに取り組んだ子ども達が「他の人や立場の人とは違った方法でお年寄りを楽しませたい」と考える。あるいは、学校を綺麗にするプロジェクトに取り組む子どもが、「自分たちが卒業しても、学校を綺麗にするノウハウを後輩に伝えておきたい」と考えた。全校朝会でそのための時間をもらえないか、校長と交渉をする。 こうした事例からは、自分たちの学習活動に自信を深めて、自分達の手で自分達の納得できる活動を求める子どもの姿が見えてくる。課題追究を通して、どうしても取り組みたいことや関わりたい対象、考えたいことが生まれてくる。体験的な物語を含んだ課題解決の過程が“自分(達)らしいオリジナリティを持った活動”を創り出して行く。教科の学習でも、子どもが自分らしいオリジナリティに満ちた考え方にこだわるという場合があろう。しかし、総合の場合は課題追究の深まりと活動のオリジナリティの間に、教科よりも深い関係がありそうである。 教科の場合は時として、答えや解法のオリジナリティを重視しなくとも学習が成立する場合がある。同じやり方で、同じ答えを出せればよいという場合などがそうだ。問題に対する解法と答えの斉一性が重視され、子どもの個々のオリジナリティは不問にされてしまうこともある。ところが、総合の場合は追究が充実するほど、「自分(達)のやり方や考え方」に対するこだわりが強くなる。 「街の環境を良くするには、自分達の力だけでは無理だ。でも、自分達が何もしないでいろいろとお願いだけするのは筋が違うと思う」 「他の学校や、他の中学生が創った船じゃだめなんだ。僕たちのクラスでしかできない、世界初の船を創らないとダメなんじゃないか」 こうした、オリジナリティへのこだわりは、“私”と“課題”の強い結びつきを象徴している。 この、オリジナリティへのこだわりは、自分達の活動に対する「質の高い成果を期待する意志」から生まれてくる。結果へのこだわりが、結果のクオリティを高めたいという願いを膨らませて行く。 「公園の環境を調べるには、一回調べただけじゃだめだと思う。行く時間を変えたり、行く時期を変えたりしないと、本当の公園のことはわからない。だから、何回も行った方がいいと思う」 より深く、詳しく、丁寧に、確かに調べたい。そうした、質の高い結果へのこだわりが、「何回も公園に足を運ぶ」という活動を創りだしていく。この繰り返しは、「何回も足を運んで、詳しく調べてきなさい」と、誰かに指示をされて行う繰り返しではない。「もっと詳しく知りたい」という学習者の要求から生まれた繰り返しである。 「つけものの名人の話を聞くだけではなく、自分達でいろいろ試しにつくってみないと本当のことがわからないと思います」 学習者が自分達の手で実際に試してみたいと考えるのは、「納得がいく、質の高い結果」を希求しているからである。自分達の求める結果のクオリティを上げたいという願いの高まりも、学びの深まりを換喩しているのだと言えよう。 こうした質の高い結果を実現しようとするのは、学習者の課題追究が現実味を帯びて来るからである。PISA調査の問題が、現実社会での知の働きを想定して作成されたとしても、それは現実の問題ではない。そのテストが終われば、学習者にとって問題はではなくなる。リアリティを喪失し、色あせた問いになってしまうのだ。 しかし、総合の学びは深まって行くと、リアリティは学習者にとって一層重要度を増して行く。 「スカシユリが咲いている写真を見るだけでなく、自分達の手で本当にスカシユリの群落を再現してみたい」 調べたり、知るという活動がより現実的な目当てを生み出し、現実の世界で実現すべき事柄につながって行くのである。学習者がリアリティある活動と結果にのめり込んで行く姿も、総合の学びの充実を表していると言えるだろう。 「オリジナリティ」「クオリティ」「リアリティ」は、総合の学びの充実を示す学習者の表現である。この三つのどれも随伴しない課題追究は、学びの深まりに問題があるのであろう。学習者の姿こそ、学びの深まりを示すバロメーターなのである。2008/1/1 |
| 106.年賀状に思う礼の心 かつて、「学力裁判」という本の中で、「あいさつは学力の一部である」と書いた。他者や社会の中に潜んでいる知を引き出すためには、他者との関係が重要だ。日頃から挨拶がしっかりできる人は他者に何かを尋ねた場合にも、快く応じてもらえるだろう。社会から知を引き出すコンセントが「あいさつ」という行為なのである。 どの本の中であったか記憶が無いが、中国の古典の中で出会った言葉で「汝を以て我を礼とし、礼を以て我を汝とす」という言葉を読んだことがある。あなたの存在によって私の中に礼を行う心が起こり、礼という行為によってあなたと私の存在が融合して行くという意味であろうか。この言葉を読んだ時、「礼という行為があなたと私の距離を限りなく近づけていく」という考え方に感動したものである。 「人付き合いが苦手である」「友達をつくることができない」。こうした性格を個性だからと、放置しておいて良いものであろうか。独り静かな環境を好み、誰とも接したくない子どもは確かに存在する。だが、それが個性だという理由で、孤立させておけば子どもの発達に著しい障害を残すであろう。あなたが私と繋がるという連帯を知らずに、実社会を生きる力が育つとは考えにくい。アタラクシア(心の平安)も孤立世界ではなく、家族や仲間との繋がりが感じられてこそ訪れるものなのではないか。 いよいよ今年も年末を迎え、年賀状を投函する時期を迎えた。ネットで繋がる先生方には、この「論壇」を以て年賀状に代えたいと思う。来年も教育という共通のテーマで、繋がることができますように。 (2007/12/20) |
| 105.静岡大学附属静岡小に見る指導知の醸成 今週、静岡大学附属静岡小学校で、授業研究会に参加する機会を得た。この校内授業研は二日間に渡り、授業実践と検討、授業の再設計と実践を繰り返す形で行われる。研究授業→指導者と実践者による授業検討会→検討会を受けた指導案の作成(翌日の授業試案)→全校職員による指導案の検討会→更なる、指導案の修正→翌日に前日の修正を経た指導案に基づく授業実践→再び外部指導者と教科担当教員による授業検討会→・・・という短時間で授業をリメイクする研修である。 授業者は自分の案を同じ担当教科の先生方と協議しながら、第一案を作成する。そして、実践は全ての教師と指導者に公開され、事後には再び協議による授業の検討会が行われる。この研究会は「大研」と呼ばれ、同校では伝統的な研究方法なのだそうだ。この研究方法の素晴らしさは、短時間で授業と子どもの生の変化と現象を捉え、しかも、外部指導者を含めた異見(異なる考え方)の出し合いにより授業を見つめ直し、翌日には授業修正の効果が複数の目によって再び評価される過程にある。 教師相互の話し合いでは、「ねらいの捉えが甘いのではないか」「子どもの考え方に指導が適合していないのではないか」「もっと能率が上がる指導法がある」「この教材で子どもの学びのどこに迫りたいのか」「私ならば、違う教材を提示する」等々。具体的な内容は書けないが、極めて具体的で積極的な意見交換が行われる。一つの授業に対して多くの改善案や意見、あるいは実践者の指導に対する質問が投げかけられ、次の授業への焦点化が進んでゆく。今回の授業では、一日目の授業で見えた子どもの迷いに着目し、二日目の授業を修正した結果、学びの深まりが一気に進んでいた。 一人の教師の授業を多くの教師が真剣に検討し、批判を受けた実践者はその声に耐えながら次の実践の糧としていく。実践を主軸にした協働的な指導知の創造は、端で見ていても躍動感を伴う動的な知的活動だと感じた。 現在、同校の研究主題は「自分らしくなる」である。多くの先生方の協議に次ぐ協議を通すことで、実践者の授業はより「自分らしく」なり、子ども達も自分たちの考えを確かめ「自分らしく」なって行く。今後も、「静小らしい研究と実践」による研究成果を出し続けて行ってもらいたいと願う。 (2007/12/7) |
| 104.山は学校である ラインホルト・メスナーは世界的な登山家として知られている。先日、過去のメモ帳を整理していて、彼の言葉を再発見した。おそらく、テレビ番組で子ども達にアウトドアでの生活術を教える番組(外国局の制作と思われる)を観た折りに、記録をした言葉なのであろう。 「山は学校である。山はいつも我々に色々なことを教えてくれている。経験、体験としてそれを学ぼうとしない者は命を落とすことになるであろう」(ラインホルト・メスナー) 山は、積極的に何かを教えてくれる存在では無い。学ぶ側が学ぶ態度を持たぬかぎり、山の知はその輪郭を顕わにしない。しかも、知識として知るだけでは充分では無い。雪崩の危険は誰もが知っている。どんな条件で発生するのかを知識として知ることもできる。だが、体験として知ることが無ければ、畳の上の水練(タタミの上で水泳の練習をすること)に閉じる恐れもある。 「実社会は学校である。実社会は我々にいつも色々なことを教えてくれている。実社会の中から学ぶ態度を持たぬ者は、知識基盤社会を生き抜くことはできない。自らの置かれた環境を学び場にできる人こそ、実社会を生きることができるのだ」 メスナーの言葉を学習に当てはめてみると、上記の様な言葉になるのではないか。 主体的に学ぶ態度を持てば、五感に触れるもの全てを師に変えることができる。「今ここ」という現実から学べる力は、知的な充実を生み出す「知の根となる力」なのであろう。 (2007/11/28) |
| 103.S市中学校校長会にて 先日、S市中学校校長会の研修会で以下の二点について質問を頂いた。その場では、短い時間で充分な回答ができなかったので、ここで質問に対する私見を述べてみたい。 質問1 教育三法の改正により、学校組織が垂直化(副校長、主幹、指導教諭など)している。縦のラインが法的に強化されて行く現状の中で、横の繋がりを重視した学校経営をしていくにはどうすればよいのか。縦型組織化する教育行政の流れと、マネジメントのフラット化は相反するのではないか。 回答 組織の構造は「設計上の構造(書かれた構造)」と、「実際の組織風土(組織文化)」という二つの側面を持っている。組織を動かしている組織文化は組織図とは異なると考える。校長、副校長、主幹、指導的教員、という組織階層が、そのまま組織の運営に反映されるとは限らない。組織が直面している課題の性質によっては、縦系列(上位下達型)の指揮命令系統を生かした組織運営も必要であろう。 しかし、 ①これから採用される若い人材は組織の上下関係を嫌う傾向がある ②上が指示しなければやらないという体質を生みやすい ③“鬼の居ぬ間の洗濯”という状況も生起しやすくなる ④多様な問題が次ぎ次ぎに出現する学校では、自主的自治的な免疫的組織が指示を待たず に結成される方がよい、 という理由から、フラット型の組織文化を開発するマネジメントが必要になると思われる。 同僚性の開発を行い、信頼関係を深めつつ互いの行動や思考の傾向を把握しながら、協働 的な組織の土壌を育てていくマネジメントが必要になる。 質問2 日本の教育予算はなぜ低いのか。子どもの人数に対する教職員の数が足りていないことは明らかだと思うのだが、改善される見通しはあるのか。 回答 日本の学校教育費(対GDP比)はOECD加盟国の中で最低レベルである。日本の教師は世界で最もコストをかけずに高い教育成果を生みだしていると言える。その成果は、学校、教員の努力と工夫によって生み出されて来たものである。今後も経済的な裏打ちが薄い中で、教師の創意工夫と努力だけに責任を負わせてしまうのはいかがなものだろうか。「未来を拓く公学力」にも書いたが、今の日本の社会繁栄は戦後の教育復興に頼るところ大である。そろそろ、社会全体が教育のために恩返しをしてもよい時期に来ているのではないか。環境問題、高齢化問題、格差社会の問題など、全ての社会問題と対峙してゆくのは、これからの子ども達である。人を育てること無くして、将来的な問題解決などあり得ないのではないか。 教育の効果は他の事業と異なり、成果全般を数値や可視化できる形で表せる性質のものではない。成果が見えないことは成果が無いことと同じではない。成果が見えにくくとも重視されるべき社会領域が「教育」なのであろう。現状で学校に充分な人材量が確保されているとは言えず、拡大し続ける業務を抱えた学校に人的、予算的な工面を望みたいところである。 (2007/11/16) |
| 102.言葉と体験の重視 ▼「言葉は確かな学力を形成するための基盤であり、生活にも不可欠である」「体験は体を育て、心を育てる源である」(中教審審議経過報告)。この延長線上で、次期指導要領では「ことばと体験」が重視されるという。これからの校内研究/研修では、“言葉と体験の充実を重視した指導法の改善”という様なテーマを掲げる学校が更に急増すると思われる。今世紀に入り、総合、習熟度に続く教育界第三の波は「言語と体験」になるのであろう。 ▼教育における「言葉の重視」は今に始まったことではない。「言葉」は教養教育の原点でもある。ローマ時代後期から「文法学=構文の知」「論理学=思考の法則についての知」「修辞学=説得の知」は三学と呼ばれ、教養教育の要を担っていた。一説によれば 「三学= (トリウィウム trivium) 」は 「トリビア(trivia)=三叉路」に通じるという。違う方向から歩いてきて、三叉路で出会った三人が共通理解を図るには、「文法学/論理学/修辞学」を修めている必要があるというのだ。言葉の力を中心とする思考力や表現力は、古くから教育の重要な領域だったのである。 ▼一方の体験は言語に意味を与える力を持つ。文字情報としての言葉に個人的な経験をかけ合わせることによって、使える言葉から通じる言葉に変わって行くのである。かつてインターネットを使って、遠隔地の学校を結ぶ授業で興味深い光景を目にしたことがある。一方は都会の学校であり、一方は海が近い漁村にある小学校だ。 「そちらは、何がおいしいですか(都会の子)」 「イカはお刺身で食べると、甘くておいしいです(漁村の児童)」 「イカって海でとれるイカ?(都会の子)」 「そうです(漁村の子)」 「イカって甘い食べ物じゃないんじゃないですか(都会の子)」 「新鮮だと甘いんです(漁村の子)」 「どういう風に甘いんですか(都会の子)」 「噛むと甘みが出てくる感じです(漁村の子)」 「・・・・イカが甘いわけないよね(都会の子達のつぶやき)」 ▼都会の子どもは甘いイカを食べた体験が少ないのであろう。言葉では「イカ」の意味も、「甘い」の意味も通じている様である。しかし、「イカが甘い」という表現は、新鮮で甘いイカを食した者にしか共有できないのであろう。言葉の意味が伝わっても、体験の共通性がなければ、ねらい通りの内容は相手に伝わらない。言葉と体験は、互いに補完をしあいながら意味を構成しているのである。言葉を持っていても、体験を欠いてしまうと意図や考えが「通じ合えない」こともある。 言葉と体験を重視する教育は、共通した意味世界に参加する力を育てることを目指すものであろう。そこで培った力が、体験的に人と通じ合い、繋がり合いを通した、次の次元の学びを実現する力になる。 (2007/11/7) |
| 101.「全国学力テスト」の波紋と教師の責任!? このところ「全国学力テスト」の問題がマスコミで大きく取り上げられている。マスコミで焦点化されている問題点は、「基礎知識の定着を問う問題では概ね良好な成績を収めている。しかし、知識の活用を問うB問題の正解率に課題が残る」という点だ。 A問題の正答率よりB問題の正答率が低いというが、筆者なりにこの結果を言い換えると次のようになる。 「シンプルで解くことに馴れた形式の問題の点数はよかった。そうでない問題は解きにくかったので点数が伸びなかった」。ちょっと古いが、マーフィーの法則風に言えば、「基礎問題と応用問題は、応用問題の方が解きにくいことが常である」ということになろうか。 単純な100メートル走よりも、複雑な動きが必要な“借り物競走”で100メートルを走る方が時間がかかる。ゴールまでの道のり(解答までの頭の働き)が複雑になれば、ゴールに到達することが難しくなる。馴れていない道のり(解き馴れていない問題)ならば、なおさらのことだ。こう考えてみると、A問題とB問題で同じ様な点数を取ることの方が不自然に思える。しかも、基礎的な知識から学習が始まり、その知識が応用の場面で繰り返し使われることも多い。先行する基礎知識が活性化した形で身に付いていても不思議ではない。常識的に予測できた筈の結果に対して、国を挙げて大騒ぎをするのもいかがなものか。 また、今回はA問題とB問題という二つの領域で済んだが、今後は「C問題やD問題」が登場する可能性もある。「パソコンを使って課題解決をするテスト」「実際のディベートや話し合い活動をさせるテスト」などが導入されれば、その度に大騒ぎをするのであろうか。今回の結果を受けて、授業改善や指導法の改善がこれまで以上に声高に主張されることになるだろう。しかし、“基礎よりも応用ができないこと”の責任まで教師に取らせようとするのは無謀な気がする。今回の調査は、テストによる定量的調査だけでなく、質問紙による定性的調査も行われ、結果が公表されている。問題の性質と点数だけでなく、子どもの生活実感や、考え方に注目した教育の在り方も考えて欲しいものだ。 (2007/10/25) |
100.“数で比較”のわかりやすい間違い![]() 先日電車の中で、「日本9%、アメリカ59%」という大きな文字が目に飛び込んで来た。その大きな文字の上には、「世界の先生は、大学院終了の時代」と書かれている。この数字だけを見れば、「やっぱり日本の先生は勉強不足なんだな」「だから、教師の指導力不足が問題になるのだ」という 感想を持つ人も多いであろう。IEAの調査結果を持ち出し、日本の教師の研修や再教育を促そうという魂胆が見える広告だ。 しかし、アメリカの子ども達の学力と、日本の子ども達の学力をIEAのデータで比較すると、数学が日本の5位に対しアメリカは15位、理科が日本の6位に対してアメリカは9位である。つまり、大学院卒が少なく、教員養成に時間的コスト、経済的コストを上げることなく、子どもの学力を伸ばしているのが日本の教員なのだ。 学歴や数値は“客観的で確かなデータ”に見えやすい。9%と59%という差は歴然であり、あたかもアメリカの教師の指導力が高そうに感じさせる。だが、日米の教員養成課程の違いや大学院でのカリキュラムの違いなどが考慮されず、大学院の卒業率だけを切り出して日米比較をすることに意味があるのだろうか。一方で、日本の授業研究(Lesson Study)が持つ研修効果が欧米から注目されている。授業研究は、大学院卒という学歴と全く異なる次元で指導力向上に役立っているのだ。教師にとって大学院卒であるということは重要な価値を持つのかもしれない。しかし、「授業研究を継続し続ける教師文化」という、数値や学歴で表現されない部分にも、日本の教師力を支える大きな効果がある筈であろう。 数でやデータを鵜呑みにすることは極めて危険である。その背後に潜む数値化されない情報や状況を読まねば、判断の過ちを招いてしまう。数値の様に、一見、理解の必要性がなさそうな情報こそ注意深く読み解く必要がありそうだ。(2007/10/11) |
| 99.カリキュラムを創り・動かし・直す 9月は数多く授業を見る機会を得た。長野県の小学校では朝から5時間目まで連続で授業を拝見させて頂いた。こうした、実際の授業から学べる事柄は多い。論戦だけでは見えてこない学びの本質や、子どもの本質に気づかされることもある。特に、教師の指導力や授業術は、論ではなく実際の授業の中でこそ見えてくるものであろう。“暗黙知としての指導の知識(M.ポランニー)”が顕在化してくるのが、生の授業というものだ。 そうした生の授業を見ていると、「カリキュラム・クリエイト(創造)」「カリキュラム・ドライブ(実行)」「カリキュラム・リペア(修正)」という三つの力が、指導力と密接な関係にあることがわかる。 今の授業に至るまで、そして、今から次の時間に向かっての単元設計の見事さ(創造)。あるいは、子どもの行動や発言を授業のねらいに結びつける、授業運びの巧みさ(実行)。そして、子どもの反応や状況の変化によっては、授業や単元の方向を修正していく授業補正の力(修正)。授業を「つくり、はこび、なおす」という三つの力の一つが欠けても、質の高い指導力には結びついて行かないであろう。まして、子どもの活動は指導者の予測を超えることもしばしばであり、予定通りの授業運びでは追いつかないことも多い。 ドナルド・ショーンは「教師は反省的実践家であり、不確実かつ流動的な状況を修正していくタイプの専門家だ」という主張をしている。授業という複雑な状況の中で、学びの船を進めていくためには、授業をつくり、授業をはこび、授業をなおすという、柔軟な思考力が必要なのであろう。(2007/10/3) |
| 98.批判を金言に変える学校 夏休みが終わり、各地の学校では「提案/研究授業」を基にした授業研究が始まっている。授業の実践分析は、先生方の指導観や教材観などを知ることができ、大変参考になる。そうした研究協議の場でよく感じることは、学校によって、教師同士の言葉の意味や価値が大幅に違うということである。 ある学校では、ちょっとした意見が、非難として受け取られる。「もう少し違う方法があるのではないか」という意見が出されるだけで、なんとなく協議の場全体が妙な緊張感に包まれる。おそらく、教師間の関係が良好ではないのであろう。従って、協議でも当たり障りの無い、良かった点だけが取り上げられるが、協議の充実感は薄い。 一方で、かなり辛辣とも思えるやりとりが交換される学校もある。「そもそも、単元の設計に問題があるのではないか」「課題の示し方が曖昧すぎて、子どもが迷っているよ」。しかし、そんな批判的な言葉でも、互いに参考にしながら意見交換が続く。そして、協議が終わった後には、なんとも言えない充実感を先生方が共有している。 ある学校では、ちょっとした意見が批判的な攻撃として捉えられ、別の学校では参考になる意見として尊重される。同じ言葉でも、学校内の組織風土や人間関係によって、大きく意味が変わってくるのである。当たり前のことだと言われればそれまでだが、その差を当たり前で済ませておいて良いのかという気もする。批判を金言に変えられる学校。それは、自ら成長する学校に共通する特徴だと言えないだろうか。(2007/9/21) |